「プレゼンテーション授業で学生を変える」~学生の主体性を引き出す方法の模索(1)

今回からまたまた新シリーズを始める。私が大学でどんな授業を展開し、どんな課外活動をしてきたか。学生が成長するのは、自ら率先して学習しようとする主体性が必要である。その主体性をいかに引き出せるかが鍵だと思う。さて、それはできたのか、自分なりに検証したい。何かの参考になれば、幸いである。 山梨県立大学での教養科目で「プレゼンテーション」を12年間教えていた。これは開学と同時に私が開講した授業で、1年生から受講できる。一般的に高校までの教育では、自分の意見を人前できちんと伝えることを教えない。学生は、一様に「人前で話すのは苦手だ」という。その苦手意識を払拭し、人前で楽しく的確に話せるように、授業を展 […]

「黒澤明監督と仕事ができた幸運」~映画に関する腑に落ちる話(3)

86年から96年まで、私はソニーPCL(株)でハイビジョン推進を担当していた。ソニーはメーカーとしてハイビジョン機器を開発し、私はその最新機器を活用してソフト制作の可能性を模索する役回りだった。その中で映画でのハイビジョン合成を積極的に推進した。 現在では、デジタル技術でどんな画面合成でも最高のクオリティで可能だが、当時はブルーバックによるクロマキー合成をハイビジョン撮影で行い、フィルムに戻す方法が画期的なことであった。それまでのフィルムでの合成は、オプチカル合成と言い、8段階のプロセスを踏み、労力がかかり、かつバレバレの画面しか得られなかった。 最も早くこの技術を使用した作品は、実相寺昭雄監 […]

ステッカー収集お気楽日本一周(1)~価格と受け渡し

車に1000枚貼ってアートとしたが、元々は授与品のステッカーで私が作ったものではない。今回から、1400枚をいかにして集めたか。集めて何が見えてきたのか。いくつかのテーマに分けて、レポートしていく。第1回は、価格と受け渡し。 ステッカーの価格(?)は千差万別、神社次第である。 諏訪大社は、5000円で自分の車の安全祈願をしないといただけない。同様な考え方は全国20か所以上で言われた。ステッカー1枚のために5000円は出せないので、単品ではダメかと交渉をする。その結果、数か所の神社では、レンタカーならしょうがないと特別にいただけた。 一番高いのは1500円。明治神宮はお守りとキーホルダー付なので […]

「映画史上の人物に会う」~映画に関する腑に落ちる話(2)

学生時代、映画関係の本を片っ端から読んでいた。誰に教わることもなく、何となく映画史が頭に入っていた。 84年頃だったと思う。会社の受付から外国のお客様が来ていますと困ったような連絡があった。初老のフランス人から、確かテレシネ(フィルムからビデオに変換すること)を頼まれた。名前を聞くとクリス・マルケル氏(1921年7月29日~2012年7月29日)だった。「ラ・ジュテ」などドキュメンタリー作品を監督、「シネマヴェリテ」の旗手の一人だ。本で読んでいた本人がそこにいる。後で知ったことだが、その頃、「ドキュメント黒澤明A.K.」(85年)、「トウキョウデイズ Tokyo Days」(86年)などの製作 […]

「変わってしまうのか、心地よいキューバ」~世界を感じる事実の断片(1)

今まで85か国に訪れ、様々な体験をし、たくさんのことを学んだ。あと3年で100か国を目指していたが、実現するかどうかは自分の健康状態次第である。 今回から、シリーズ「世界を感じる事実の断片」を断続連載する。コンセプトは、実際の体験に基づいた事実しか述べないこと、そして個別を全体と混同して全体を知ったようなことを言わないこと。 オバマ大統領が、キューバとの国交回復を図った途端、20世紀の歴史的ヒーロー、フィデル・カストロが逝った。このところ、毎日マスコミが取り上げている。私は2007年3月、一度だけキューバに行ったことがある。実に心地よい、また行きたい国だった。 訪問の目的(大義名分)は、キュー […]

「若松孝二監督よ、永遠なれ」~映画に関する腑に落ちる話(1)

今回から、私がお会いした映画人、印象的な国内外の映画祭、世界の映画スタジオ・映画館など、具体的な記憶をシリーズ「映画に関する腑に落ちる話」で綴る。 私が入院した10月17日は、実は若松孝二監督の命日だった。4年前の10月12日、この病院からわずか5分、外苑西通りを横断しようとしてタクシーにはねられ、5日後に息を引き取った。改めてすごく近い何か感じる。青山葬儀場にお通夜には、授業の関係で30分遅刻したが、成田裕介監督に案内され、光栄にも最前列の崔洋一監督の隣の席をあてがわれ、目の前の遺影にお別れできた。 私が監督と出会ったのは、映画プリントを借りに行った19歳の時だった。以来40年余、様々な場面 […]

楽しいパーティを演出しよう。

私は、よくパーティを企画する。友人との再会を楽しむためと互いに知らない友人同士を引き合わせるためである。これがきっかけで友人となった人も多い。 海外ではホームパーティをよく開き、隣人などと交流する。日本では飲み会は多いが、大体知り合い同士、職場の同僚など限られた範囲の人しか参加しない。婚活パーティは、集団お見合いだ。賀詞交歓会は、業界内の新年あいさつ会で、ここから何か生まれるわけではない。 今まで5回ほど開催した。還暦パーティは前回blogで述べた。今から16年前、2000年の9月29日「20世紀の告別式」というパーティを企画した。20世紀の終焉を記念して、語り合うというものだ。9月というタイ […]

あなたはいつから死を意識しましたか

私は40歳代である。しかし、その時は残された時間をいかに自分らしく生きていくかを模索した。具体的死を念頭に活動を開始したのは還暦からである。 まずは、お世話になった多くの人を招き還暦パーティ。60年間で一巡したので、2番目の名前「哲斎」を名乗った。新宿「パセラ リゾーツ」で60人を招き第壱会、「特急スーパーあずさ29号」の中で第弐会、甲府の「ボンマルシェ」で第参会の連続開催。 誰にも言っていなかったが、私にとっては第1回「お別れ会」のつもりだった。生き残れば、第2回、第3回と続く。次のタイミングは、来年3月に「山梨さよならパーティ」と「東京さよならパーティ」、4月に前橋にあるアトリエで近所の人 […]

なぜLIFE ARTISTを名乗ったのか?

今まで私は、同時期に多くの異なる名刺を持っていました。それらは、基本的には所属する団体名のものです。日本は、名刺だけで信用してしまう社会です。ソニーPCLの社員だった頃、「映像新聞記者」の名刺を持っていたので、気兼ねなく松下電器の取材に行けました。確かに便利ですが、所属で人を見るという感覚が嫌いでした。そのためある時期から「Advanced Media Producer」という肩書にしました。当時、残間里江子氏が「メディアプロデューサー」と名乗っていたので、その先を行くことにしたのです。しかし昨年頃から、メディア関係ではない、新しい概念の肩書を考えてきました。 96年、「現代美術センターCCA […]

「急性骨髄性白血病」は不治の病ではない

さる10月17日、白血病で緊急入院した。 白血病と言えば、夏目雅子が急逝し、渡邉謙が復帰した病気である。 映画では、アーサー・フラー監督の大ヒット「ある愛の詩」(70年)、行定勲監督のこれも大ヒット「世界の中心で愛をさけぶ」(04年)などがあり、不治の病として描かれる。 しかし、実際は抗ガン剤治療法が確立していて、今では十分治る病気となった、 とはいえ、白血球数低下のため、感染症を止められない大きなリスクがある。 私の場合は、風邪の人は除き、面会は可能である。 写真は、私の染色体である。生物の教科書で見た記憶があるが、自分のものは貴重だ。主治医の菊池医師からいただいた。