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お別れのコトバをいまのうちに

私は65歳、遅かれ早かれ死亡する。告別式で弔辞が読まれるが、死者には聞こえない。選りすぐりのエピソードなら、ぜひ生前聞かせてもらいたいものである。本人としても、誰が何を考えていたのか知りたいものだ。また、式場で弔辞を読める人は選ばれた人でチャンスは少ない。この際、私の告別式を想定して、私を知る多くの方々から、今から「お別れのコトバ」いただいておこうと思う。こうしていただいた「コトバ」集を編集、印刷して、本番の時、配布したいと思っている。いい思い出となるはずだ。

・形式自由(私とどこで出会い、私と何をし、私をどう理解したか、など)
・記名(匿名厳禁)
・私が感動したものについては記念品贈呈(※すでに終了しております)
・公序良俗に反し人権を傷つけるものは即削除

※ただいま本人の代わりに家族のものがコメントの承認管理をしております。

200 comment
  1.  一新塾に入塾して先生と出会いました。講義ではフィルムコミッション設立のお話をうかがいました。大きな功績を残しているのになぜ自分には関係ないというか偉ぶらないのかが不思議でした。先生は何かに没頭していながら何か他のことを見ているように映りました。そして今日、先生のブログで「私は、常に「マイノリティ」でありたいと考えていて…」という一文を目にしました。そんな考えかたがあるのかと驚くと同時に何か先生のことが少しわかったような気になりました。真実とは、マジョリティの中にではなくマイノリティの中にある気がします。ハッとさせられました。
     ライフアート、自尊神など興味深いタイトルが並び、これからの更新を楽しみにしています。

    1. 突然の連絡で驚いています。井上です。サイト全部見させていただきました。田舎のおばちゃんでは難しいです。でも私にとっては東小のてっちゃんです。あなたのおかげで同窓会で懐かしいみんなに会えました。ありがとう。可能ならばまた会いたいなぁ。いつまでも前沢てっちゃんだからね。

  2. ☆美術鑑賞会という、大学サークルで出会いました。さて、誰でしょう。
    ツェッペリンのレコードを自転車に乗って、日吉にとどけにきてくれたこと、仲間と麻雀したこと、SKIにでかけたこと(同じスキー場にはできるだけ行かない方針がある。)などが、20代の思い出です。

  3. サイトオープン、おめでとうございます。
    前澤さんとは、76年に慶大の美術鑑賞サークル「洗濯船」で出会って以来ですから、もう40年経ちます。活動範囲、スピードがものすごく、いつも刺激を受けます。97年、返還前の香港に二人で行きましたが、あれから前澤さんの世界遍歴に磨きがかかったようです。

    1. 香港には、その時初めて行きました。ついでに、マカオで「大中小」、シンセンで麻雀牌を買いましたね。
      その年、仕事もあって4回も香港に行ってしまいました。

  4. 前澤さんがマイノリティでありたい方だとブログ開設で知った。
    「なるほど、そういわれてみれば…」と。いち早く「全国フィルムコミッション協議会」を立ち上げトップでありながら懇親会の幹事もする。大きな流れも作りながら細々とした会員の動きも見て即座に次の事業展開を図ってきた前澤さん。当たり前のことのようだが、誰もができることではない。
    地方沼津で愚痴っていても会議に行けば「ここには同志がいる」「やっぱり頑張ろう!」と思えてくるのは、前澤さんが率いてきたからであると常々思ってきた。全国組織を作ること束ねることルールを浸透させることがどれだけ大変なことか。できないことを言い訳にしない、解決できるか否かはトップ次第であることも30歳過ぎて更に確信するに至った。
    振り返れば、前澤さんの協議会がどれだけ全国の仲間に影響を与え進化をもたらしてきたか。私が協議会に魅力を感じていたのは「他には存在しない」ものであったからなのだ。それは前澤さんがマイノリティであったからなのだ、と今、合点がいった。

    1. おほめにあずかり、少しこそばゆい感じです。逆に私は、金子さんから相当のエネルギーをいただいてきました。どうやら感じあっていたようですね。

  5.  前澤さんとは、同じ慶應大学の美術史専攻で、ゼミは違ったけど、確かK先生の特別講義でいっしょだったのが友人づきあいのはじまりだと記憶している。学生は数人で、当時助手だった先生も一緒に授業のあといつも日吉の飲み屋だかにしけこんだよね。
    前澤さんって、当時から、ぶっとんでるというか、枠にはめようにもとうていはまらないタイプで、既にインドだかバングラデシュだかを放浪していたから、私たち同期生より実年齢も精神的にも年上だったし、経験豊かな大人の男(笑)、だったよねー。
    私が新聞記者になってもたまにランチして、いろいろ新しい世の中の動きを教えていただいたね。音楽やメデイアの最先端の仕事をしていて、世界あちこちを見ていて、スケールがでかくって、いつも、とても新鮮だったよ。

    お世話になったのは、私になかなか子どもができなくて治療先を探していたとき、お身内の、亡くなられたI先生や、S先生をご紹介くださったこと! 本当にありがとう! 
    諦めた末に授かった息子、立て続けにできた娘、ともに、そのS先生に慶應病院で引っ張り出していただいたわけだから、我が家では、S先生共々前澤ご夫妻は、足を向けては寝られない恩人だと思っている。

    その後、子育てや仕事やらでばたばたして、ずっと、ほとんどお会いできなかったけれど、今回お見舞いで久々にお会いして、一気に長い空白の時間がちじまったように思ったよ。思い出を共有した学生時代の友達って、いいもんだなって、あらためて思った。

    めっちゃお洒落なブログ作っちゃって、もーおどこまでもかっこよすぎだけど、まだ65歳じゃん。焦らずに、もっとのんびりして、奥さんの言うこと聞いてきちんと治したら、、、遊ぼうー(笑) 

    快癒を、首をながくして、お待ちしています。

    (新聞記者と同時にイラストレーターとしても活動している自己紹介ブログを、ウエブサイトの項目に添付します。前澤さんみたいなブログのあとだと恥ずかしい限りですが)

    1. うれしいコメント、ありがとうございました。「既にインドだかバングラデシュだかを放浪していたから」というのは、誤解です。ただ、当時の私の風体は、直毛の髪を背中まで伸ばし、黒シャツと黒ズボン、下駄をはいて、鈴のついた手編みの肩掛けをしてので、きっとそうだと記憶が作られていったのでしょう。

  6. 前澤さんと始めて出会った日の記憶はあまり残っていません。たぶん2001年か2002年の釜山映画祭の期間中に始めて出会ったでしょう。その時も確かにいろいろお世話になったはずですが、私の記憶での前澤さんは2003年春ごろパク監督と一緒にした日本フィルムコミッション回りからです。1週ぐらいの短い日程で12ヶ都市を車で回るアドベンチャー。東京から上田‐松本‐高山‐金沢‐福井‐大阪‐神戸‐姫路‐広島‐北九州‐福岡までの旅行。覚えてますか?
    3時間運転して1都市の関係者と1時間ぐらい出会って、また3時間運転して次の都市に移動。 日本での運転がはじめだった私のせいで交代時にも一睡も寝ずに運転指導のため大変だった姿。毎日夜ホテルの狭い部屋で3人で酒を飲みながらいろんな話をした面白い思いで。すべてがとても楽しかったです。

    その後長い間、毎年日本と韓国釜山で出会ったすべての瞬間が私の記憶にちゃんと残っています。本当に本当にありがとうございました。

  7. 国内のフィルムコミッション行脚は、私にとっても楽しい旅でした。各地を回って気が付いたのは、同じ日本でもそれぞれ文化が違い、奥が深いうことでした。
    私は韓国では怖くて運転しませんが、イーさんが日本での運転が怖いと言ったのを不思議に思ってました。ちなみに帰りは、北九州からフェリーに乗ったのですが、同室の自衛隊員のイビキがすごく、朝5時に目覚ましがなり、ほとんど眠れなかったことを覚えています。

  8. 先生とは、農家民泊を山梨県に導入するプロジェクトで一緒に活動させていただきました。
    活動の一環で新潟、長野へ絶対交通安全車に乗りながら遠征中、何度か先生の助手席に座らせていただいた時に先生の大学生活や仕事、先生の一貫したマイノリティでありたいという思いを学びました。
    当時の僕は、自分がなぜこの大学にいるのか、この先何をするためにここにいるのかで非常に悩んでいました。そんな時に、先生の考え方や行動力に強く惹かれ、結果的に私は東京に出るという決心ができました。先生と共に過ごすことができたのはたったの1年間でしたが、先生との活動で得た経験は今の僕にとっても変わらず大きな財産となっています。これからも先生の更新を楽しみにしております。

    1. ありがとうございます。
      立教大学で充実した学生生活をしている文面にほっとしています。私があなたに決断を促したのだとしたら、嬉しく思います。大抵の場合、もう自分で決めていることですからね。その調子でいけば、これからたくさん面白いことが始まります。自分の人生は読めないからワクワクします。

  9. 前澤さんご無沙汰しています。福岡アジア映画祭ではお会いできてよかったです。あれから上映運動を重ねて何とか来年早春にポレポレ東中野でロードショーが決定しました。2月ころ招待状を送りますね(構成に変化はありませんがちょっとだけ手を加えます)。早く元気になってくださいね。お身体どうぞご自愛ください。またコメントします。

  10. 一新塾で先日卒塾した森安です。
    卒塾式ではお会いできずに残念でしたが、またお会いできる日を楽しみにしております。
    卒塾式のプロジェクトプレゼンにおいて、おかげさまで主体的市民賞を頂くことが出来ました。一新塾に行って本当に良かったと思っております。
    今後もご指導いただきたいと思います。
    さて、さきほどの謎の飛行物体について、ちょっと興味があり調べてみました。おそらくこれの類ではないかと
    思われたので、ご連絡させて頂きました。
    http://www.04u.jp/aerial01.html
    いかがでしょうか?

  11. 前澤先生、お久しぶりです。
    3年くらい前の夏、学生たちが農家民泊の調査をする合宿の受け入れをした、上野原市西原の長田容子です。
    あれから山梨県でも規制緩和ができ、私もすぐ下にあった空き家を古民家再生ワークショップを行いながら、年内にも10年来の夢の農家民宿を開業できそうです。
    前澤先生にも報告とお礼をと思って調べたらここへたどり着きました。驚き、そしてメッセージを残させていただいています。
    山梨県でも、やっと農家民宿を普及させようと力を入れるようになりました。その裏には先生や学生さんたちの活動があったからだと思っています。
    いろいろありがとうございました。
    ぜひお身体の調子が安定したら、泊りに来ていただけたらと思っています。

  12. 長田さま

    ありがとうございました。山梨での「農家民宿」拡大活動で学生と共にお伺いし、お世話になりました。
    ついに開業されるとお聞きし、大変うれしく思っています。
    元気な女の子ももう小学生ですね。元気になりましたら、ぜひお伺いいたします。

  13. 常識を疑い、ものごとの本質をえぐる直球の言葉にいつもハッとさせられています。
    常に旧い殻を脱ぎ捨てる前澤さんの脱皮人生にいつも刺激をいただいています。
    その奥に揺るがぬ軸が一本貫かれていることも感じさせていただいております。
    いつも一新塾の屋台骨を支えていただいておりますこと本当にありがとうございます。
    引き続き、塾生の志を生きる挑戦の後押しをどうぞよろしくお願いいたします。

    1. 前澤先生
      大変御無沙汰いたしております。一新塾で先生の講義を受けて、大いに感銘を受けました。また、先生の前橋のご自宅で合宿したことを、今でも思い出します。
      私事ですが、地方に移住して、新しいことに取り組みたいと思っていましたが、なかなか決心が着きませんでした。65歳を機に沖縄に移住する決意を固め、念願の沖縄暮らしが始まりました。今南西諸島の特産品開発のお手伝いをしています。先ずは関係の深い屋久島、種子島と南部奄美群島に通っています。
      先生から教示いただきました熱いミッションとパッションを持って行動することを目標に、残りの人生を全うする所存です。
      本当に色々とありがとうございました。

  14. 前澤さんとの出会いは、1997年の「日本映画100年」の年に遡ります。映画が渡来した年を記念して京都映画祭を開幕することになり、京都市民向けの約20分の『映画のふるさと京都』(監督:山内鉄也)を制作し、ハイビジョンで上映しようということになりました。問題は資金。早速ソニーPCLの大阪営業所にスポンサーになって欲しいと依頼しに行きました。そこで「社内で唯一、お金を儲けなくて良い人がいる」と教えられました。それが当時、広報室長だった前澤さんでした。

    すぐに連絡を取り、35㎜のフィルムを持って、東京でお会いしました。ロシアから里帰りした映画『何が彼女をそうさせたか』の復元支援も重ねてお願いするという私の厚かましさを面白がって、当時の郡山社長さんにも紹介していただき、映画祭のスポンサーにもなっていただくことができました。

    その後も、日本映画テレビ技術協会の講演会や会合でお会いする機会が増え、親しく接して下さいました。とりわけ思い出深いのは、2000年に「20世紀の告別式」という招待状が届いた折のことです。20業種100名の全く知らない者同士の集いです。映画会社や映画祭関係者、テレビ業界の人、奥様の関係で、医学関係の方、大学の先生も居られました。この珍しい集いに、京都から一人のこのこ出かけて行きました。前澤さんの11月18日付けブログ「楽しいパーティを演出しよう。」にその時のことが詳しく書かれています。その集いで「フィルム・コミッションを立ち上げる」とお聞きしたと記憶しています。彼が立ち上げた「フィルム・コミッション」は、今や日本各地に広がり、目覚ましい活躍をしているのはご存知の通りです。

    誰かがやるのではなく、先頭に立って行う仕掛人、先駆者です。前澤さんとの出会いに凄く刺激を受けた私は、2006年に「映画の復元と保存に関するワークショップ」を立ち上げ、今年夏に11回目を数えました。今では国内外に賛同者が増え、映画保存に対する意識が広まり、そして後継者も確実に育っています。また昨年5月、京都市内に「おもちゃ映画ミュージアム」をオープンさせました。貴重な映画を発掘し、保存し、次世代に継承することを活動の柱にしています。運営は大変ですが、リスクを恐れるのではなく、前澤さんのように仕掛人でありたいと思って始めました。人と人が集うことで、化学反応が起こり、新しい出会いと新しい展開が生まれます。方法論は違っても、まさに前澤さんの生き様です。

    前澤さんは私にとって、刺激的な発想や啓発に富んだ多くの事柄を教えていただいている恩人です。一日も早く回復されることを、心から願っています。

  15. 太田さん、熱いメッセージありがとうございました。突然厚かましいお願いをされましたが、その熱意に応えるしかないとその場で思いました。近くのイタ飯やで食事をしましたね。その時、紹介してもらったのが、「ニュースステーション」の記者桜田さんでした。その縁で2000年秋に「フィルムコミッション」を企画もので取り上げてもらいました。この番組で多くの一般の人が、フィルムコミッションを知ることとなりました。太田さんに会ったことで、私の方が恩恵を受けています。これが、GIVE&GIVEの関係です。久米宏さんが、この特集の最後に「日本の警察の全面協力は無理だろうな」と余計なことを言って締めました。でも、海外映画人からすると、やっぱりいまだに事実です。

  16. 前澤さん、「お別れのコトバをいまのうちに」と言われてもですね、「想定」されるときはずっと先のほうがいいわけですから、そうするとまた新しいエピソードが出来たりして内容が変わっちゃうので、そうだ、更新制にさせてくださいね。
    それに、ここに書く内容の指針として、「私とどこで出会い、私と何をし…」って、前澤さんへ向けたコトバというより他の方々への説明ですから、別れというより、出会いをつなげてられるような…。思えば前澤さんは、ここのところのブログを拝読するに、ずっと人と人との出会いを作ってこられた方のように思いますよ。そうやって、プロジェクトやムーブメント、教育……等々が連なってきているのですね。
    前澤さんとの出会いは、ライターズ・ネットワークでしたね。メディア・リテラシー研究会も、何度もごいっしょして話し合いました。よく人の面倒をみてくださる方で、いろいろ教えていただき、前澤さんには感謝しています。あと、前澤さんたちの始められたプロジェクトに参加してみて、ちょっと違ったかも…ということもありましたね。そんなこともあるほうが当たり前ですから、いい経験です。
    私が東京を離れたため、もう何年もお会いできていませんが、このウェブが出来て初めて、こんなこともされていたんだ、あんなこともされていたんだ、というのがわかりました。それで、もっとどんどんお話がうかがいたくなりました。
    しかし、なんといっても一番驚いたのが、「LIFE ARTIST」宣言です。その一環としてか、病室の冷蔵庫に置かれた祭壇のはっちゃけぶり(?) 
    ふと思い出したのですが、以前、前澤さんは、アーティストのことを指して「お金のために動かない」連中だとおっしゃっていたように記憶しています(どこか、印象に残る発言でした)。実際にはアーティストも、職業としてのキャリア形成など考える側面もあるかと思いますが、今の前澤さんは、アーティストとしてほんとうにピュアで新しいことができるときなのかな…と、今後の展開をドキドキしながら見守っています。

  17. 三浦さま。メッセージ、ありがとうございました。
    まず更新制は、グッドアイディアですね。
    最後は国際テロリストになっている可能性もありますし、気が変になって怪しい教祖かもしれないですからね。
    すごくうれしい言葉がいっぱいで天国に登ってしまいそうです。このコーナーは自己満足としてベストだと確信しました。
    皆さんもぜひ、おやりになるといいですね。互いに褒めあうことは、個人の力をアップします。
    また私は、年を経るごとに、どんどんピュアになっていくしかないと思っています。
    そんな感覚で世界を見て、自分のできることを具体的に見せていければ本望です。
    そして、今まで多くの素晴らしい人と出会ったことがどれだけ幸せなのかをかみしめています。

    1. 前澤さま

      「一期一会」…ということばが今、浮かんでいます。

      元の意味とは違うかと思いますが、こんなふうに悔いなく生きて、最後までしっかりご自身をプロデュースされようとする前澤さんにお会いできたのは、自分にとって得がたいことだったのだと。
      無駄にしないように生きたいです。

      以前、このページのメッセージは、「更新制」にしたいと認めておりました。
      あれからまだお会いできておりません。
      また更新できるでしょうか。

  18. 前澤先生、「お別れのコトバ」ではありません。
    でも「伝えておきたいこと」として、メッセージをお送りします。

    【私とどこで出会い】
    前澤先生とお会いしたのは、山梨県立大学がまだ旧山梨県立女子短期大学の校舎を使っていた頃の「男女共同参画アドバイザー養成講座」での前澤先生の講義。
    短時間かつ山梨県立大学准教授に就任されたばかりだったこともあり、話の内容はほぼ自己紹介的なものではありましたが、鮮やかなその話しっぷり、そして時間ピッタリで完結させたことに感動したことを今でも覚えています。「4年間(県立大教員を)やってみて、その後どうするかはまた考える」という表明にも驚き、「山梨が試されるんだな」とちょっとドキドキしました。

    先生、覚えていますか?この日、足早に甲府駅に向かわれていた先生に声をかけ、車で駅までお送りしたのは私です(笑)。先生は私の車の中に散らかっていた音楽CDの中からめざとく「JEFF BECK」を発見されて「あ、おんなじ世代ですね」とかおっしゃったんですけれど…「ちがう!ワタシはもうちょっと若い!」と心の中で叫んでいた、のですよ。(大笑)

    前澤先生と、なにかおつながりが持てるといいなあ、と思ったのはこのときからです。

    【私となにをし、】
    2006年、前澤先生の「地域プロデューサー養成講座」受講。第一期生!そしてプロジェクトの発表者をつとめさせていただけたことを今でも誇りに思います。
    本当は、休んでしまった日にプロジェクト発表者は締め切られていたのですが、先生は「明日の○時までにPPTを作成して提出!」の条件でチャンスを与えてくださり、大慌てて作成して先生にお送りしたことも今では良い思い出です。
    翌年、山梨市での「地域プロデューサー養成講座」の開催もうれしかったです。六市町村合併に失敗して分断してしまった山梨市と旧塩山市の市民活動仲間が集うきっかけになりました。
    そして新たに山梨市に誕生したNPO法人設立のきっかけにも。
    NPOが開催する新年会にも毎年来てくださいましたね。地域の公民館でおばちゃんたちの手料理や漬け物が並ぶような新年会でしたが、前澤先生はいつも愉しそう、すごく喜んでくださいました。眞理子さんが一緒に来てくださったこともありましたね。

    山梨市街の駅での「市民活動のビッグバン!」ではたくさんの方々ともつながることができました。
    先生に顧問になっていただいたNPOも法人格は返上してしまいましたが、メンバーがそれぞれ自分のやりたいこと・できることを再確認して今でも活動を続けています。

    そして私は、今また前澤先生とお話しししたくて、8年続けた伊豆生活から山梨に戻ってきました。

    【私をどう理解したか】
    既存の考え、「あたりまえ」にとらわれない。
    真っ先に浮かぶのはコレです。

    でもルーズな私にとって、先生がいちばん気づかせてくれたのは「時間を守ること」。
    脳内時計がズレまくっているのを理由にしてはいけませんね。これからも気をつけます。

    先生が先生として山梨においでになった時の年齢に近づきました。
    私はいま母の故郷の石和にいて「地域プロデューサー」としてがんばるつもりです。
    そして、またお会いしてお話できる日を楽しみにしています。

    12月12日12時12分  前澤哲爾先生 全快の祈りを込めて

    1. ありがとうございます。このページで私が希望した理想的なコメントです。すべてが網羅されています。
      何となく、教員と学生の関係に似ているような気がします。これだけ、立派で吸収力のあるな学生さんがいるとうれしいですね。
      甲府駅に送ってもらったことを覚えています。その時、結婚して〇年なのに、まだ「きたりもん(よそ者)」扱いされると
      山梨の保守性を指摘していました。今はどうなんでしょうね。
      山梨と思えば伊豆にいたり、「かえっこクラブ」をはじめ様々な活動でも神出鬼没な印象を持っています。
      私から学ぶことはないくらいバランスがいい人だと思っています。
      これからのご活躍、お祈りいたします。

  19. 2007年に山梨県立大学福祉コミュニティ学科に入学し、プレゼンテーション学を受講しました、寺内と申します。
    と言っても、一学生で、先生の記憶にはないと思いますが、一言お礼を申し上げたく、こちらに投稿させていただきます。
    18歳の頃は何も考えずにただただ漫然と生きていた人間でした。自分に自信もなく、人前で自分の意思を伝えるという事が大の苦手で、ずっと敬遠していたように思います。
    先生の授業では、人前でプレゼンテーションを毎回行うので、初めの頃は正直嫌だなと思っていました。

    しかしながら、人に何かを訴えかける事が、意外と楽しいものなんだなと思えるようになったきっかけの授業があります。

    今でも鮮明に覚えている授業
    『自分の地元の良いところを伝えてみよう』
    地元の栃木県を四季ごとに紹介し、自分でも拍手を送りたいと思うくらいに魅力を伝えられた、そういった充実感があった事を今でも覚えています。
    それまでの人生で、人前で何かを伝えることに成功した経験が無かった私にとっては、大きく成長した瞬間だったなと思います。

    きっとこれからもふとした時に蘇る
    そんな授業でした。

    唐突な投稿で申し訳ありませんが、
    先生の授業は本当に面白かったです。
    先生のハキハキとしていながら、どこか優しさも感じる、そんなとても耳に気持ち良く響く声も覚えています。

    きっと多くの学生が同じように前澤先生の授業をきっかけに、自分の意思を伝える大切さを学んだ事と思います。

    一刻も早い回復と、今後の活躍をお祈りしています。
    ありがとうございました。

    1. 何と嬉しいメッセージでしょう。感動してしまいます。
      07年1年ということは、9年前ですね。まだ4年生がいなかった時です。
      その授業のことをこのように伝えていただいて、
      教員冥利につきます。本当にありがとうございます。
      <「プレゼンテーション授業で学生を変える」~学生の主体性を引き出す方法の模索(1)>を
      見ていたいただいたのかと思いましたが、よくたどり着きましたね。
      今はどこでどんなお仕事をしているでしょうか?

  20. 前ちゃん
    最初に会ったのは、おそらくハイビジョンの会議か何かですね。36年前だと思います。その後、一緒に東京国際映画祭のハイビジョン部門のプロデューサーをやったり、イベントごと、面白いことにはいつも誘ってもらいました。新映像!?の勉強にディズニーワールドにも行ったね。私が、郵政の役人にセクハラ(という言葉は当時なかった)されて、断ったら怪文書を流されたときに、私のことを「ハイビジョン卑弥呼」と呼んで毎日のように呼び出していた、電通とか国営放送とか電機メーカーのおじさんが潮を引くように私の周囲からいなくなったよね。そんなときにも、前ちゃんだけは以前と変わらずにいてくれたし、意趣返しまで真剣に考えてくれていました。結局何もしなかったけど、あのときどんなに勇気づけられて、うれしかったことか! 前ちゃんの正義感がまぶしくて、ありがたくて、それだけで私は顔を挙げて生きていけたよ。山梨に行ってからも、講演を頼まれたりして、自分にできるのかなと思いながら、やってみたらみんな喜んでくれて、本当にうれしかった。やっぱり前ちゃんは、人と人、場と場、未来と現在をつなぐ達人なのだと思います。その才能をいつまでもいかしてね。病室から何が見えますか? 今度教えてね~ 

    1. 成田さま。
      メッセージ、ありがとうございました。そういう風に感じていただいていたのですね。文章で書いていただいて初めて知ることも多いです。私は「理不尽」なことに怒りを抑えられません。実はそれが行動の原点のようにも思います。昔のことで二度と話さないだろうと思っていたことでも、このコーナーを作って蘇ります。私にとって本当によかったと思います。

  21. 前澤先生
    ご無沙汰しています。総政4期生くらいだった花村です。いまは名古屋市の外郭団体で市の国際化業務をするところで働いています。私は大学時代にロンドンの大学に留学して、ありきたりですが、価値観ががらっと変わりました。卒業後は大学院に進学しPublic Healthを学びました。在学中に青年海外協力隊でセネガルに派遣が決まっていましたが、体調を断念しました。今はやっと落ち着いて 実家にもまぁ近い名古屋で働いているところです。幸いこちらでいい人も見つかり、来年くらいに結婚式しようか~みたいな感じです。
    先生は本を読まない大学教授でしたよね、先生、読まないっておっしゃってました。私は本が読めない大学生でした。でも私はバカすぎたので苦手な勉強を無理やり図書館にこもってしまくったら病んでしまいました笑。やっぱ好きなことしまくるのがいいですかね。私は次は、内緒なんですが、コスタリカの大学院にちょっと行きたいと思っています。でも今の職場にはお世話になっている(迷惑かけてます)し、家族やフィアンセとの生活もあります。わからないけど、子作り計画も。大人になるってこういうことですかね。
    FacebookやInstagram(もうJKじゃないんだから止めとこうとか)などのSNSについてや、こういうWebサイトについても気になることばかりです。お見舞い行っていいですか。お手紙お送りしていいですか。(^○^)先生の世界のお土産ください。私も旅行に行くと「実用的な珍しい物」買います♪おもしろいですよね。また旅に行きたいですね、フィルムコミッションで山梨のいろんなとこに車でみなさんと行ったのも懐かしいです。
    まだまだ先生に教えてもらいたいことがたくさんです!早く良くなってくださいね(^o^)/それでは、また。have a lovely day,

    1. 花村さま。

      メッセージ、ありがとうございました。お元気そうで何よりです。そして、色々悩みながら生きてる感じでいいですよ。青春の特権です。そう私は「本を読まない教授」でした。少しかっこよく言えば、「本よりも人から学ぶ」ですね。「内緒なんですが」は、もう世界公開されましたが、大丈夫ですか?ついでですが、なぜコスタリカなのですか? お見舞、手紙、なんでも大歓迎です。元気になったら、素晴らしい英語の歌を聞かせてください。カラオケに行った途端、生き生きとして熱唱して、びっくりしたことを覚えています。

  22. 息子と娘を海外旅行へ連れて行って頂き有難うございました。
    高速道路で運転する勇気が出たのは、キョロロン村へ行く途中、先導していただいたお陰です。その約20年前に長野県の次兄の家へ行く時、父の案内で中央自動車道を通りましたが、その頃は通行量が少なく、軽自動車の制限時速が75kmだった(と記憶しています)のであまり怖くなかったような気がします。
    それから、足利女子高校を卒業し自転車を館林に乗って来る途中道に迷い、佐野駅まで迎えに来ていただき有難うございました。

    1. ありがとうございました。
      全く記憶がないことがあるんですね。言われても思い出しません。高速道路を走る勇気は私が先導したからとは知りませんでした。ところで、キョロロン村とは一体なんでしょう? また自転車で足利から館林に帰るというのも全く覚えておりません。何をしたのでしょうか?今言われると、「49年後の有難う」ですね。

      1. 哲爾さんには体験したことが豊富なので忘れたことも多いと思います。
        キョロロン村は、20数年前、両親と兄弟家族で行った福島県にある遊び場です。どこに泊まったかは忘れました。自然の中に各種遊具や、ゴーカート、バギー、アーチェリー等あって子供から老人まで楽しめる所でした。
        足女生の時には、館林から(父の先導で)乗って行った自転車を足利市駅近くの駐輪場に預け、通学しました。卒業したので足利から館林まで持って(乗って)来る時に道に迷い、佐野駅を見つけたので電話をしたら、哲爾さんが自転車に乗って迎えに来たのです。
        それから、母が「自転車に乗れるようになったのは哲爾さんが早朝練習に付き合ってくれたからだ。」
        と言っていました。

  23. はじめまして前澤様。奈良県に住んでおります島田と申します。
    お会いしたことも無いのに、いきなり不躾なメッセージを送ることご容赦ください。誠に申し訳ございません。
    私は現在前澤さまが、行われていた交通安全ステッカーを車に貼ることを趣味としております。
    しかしながら仕事もしており、近畿地方を中心に100つを超えたあたりで取得が難しくなっています。
    ふと、Googleで交通安全で検索したところ、前澤様の車を発見し、自分の目指すものであると思いました。
    交通安全ステッカー取得の先達である前澤様から、何か取得スピードの向上に向けて御助言をいただきたいと思い連絡させていただきました。
    また、前澤様のステッカーの画像を見させて頂き、どこの神社のものか教えていただきたいものも多数ありました。実際にお伺いして、お車を見させていただきたい思いもあります。
    いきなりの連絡で申し訳ありませんが、どのような内容でも構いませんので、何卒ご連絡お待ちしております。

  24. 前澤様へ。
    大変丁寧なメールを送って頂きありがとうございました。恐れ入ります。
    交通安全ステッカー収集をする上で困っていたことを解決に導いて頂きました。
    誠にありがとうございます。
    奈良県在住なので、西の交通安全ステッカーを集めてから東へ進んで行くつもりです。
    前澤様が作られたリストも拝見させて頂きながら頑張りたいと思います。
    また、実際に同じ趣味の先輩として前澤様とお会い出来たら良いなとも思っております。今後ともよろしくお願いいたします。

  25. 前澤さん、ご無沙汰しております。ソニーPCL時代の同僚の小田です。(私は8年前にPCLを早期退職して今は主夫です)
    白血病罹患との事、初めて知りました。私も2016年秋に嗅神経芽細胞腫という希少癌に罹患し、運良く早めの発見で陽子線治療により
    抗癌剤を使用せずに治療完了できました。やはりこの経験で寿命がそれほど沢山残っていない事を実感しました。自分で健康寿命の間
    にやりたいことをやっておこうと色々な場所を訪れ、残っているのは数か所程度とまあ10年位の間には果たせそうです。
    皆既日食10回との事、私のような天文マニアでもないのにビックリです。私の最後の目標は2035年9月2日に自宅で皆既日食を見る事で
    す。お互い運良く生きていたらしっかり見たいですね。

  26. 前澤先生、こんにちは。
    山梨県立大学の望月そらと申します。
    覚えていらっしゃらないかもしれませんが、授業で少しお世話になりました。
    フィルムコミッションについてお聞きしたいことがあり、連絡させていただきました。
    連絡先が分からなかったので、こちらで失礼します。
    入院の為に退職されたと聞いたので、治療中等でご迷惑だったら申し訳ありません。 

    先生が創立者だったとは知らず、最近読んだ『フィルムコミッションガイド』という本の中で先生を見つけて驚きました。
    創立者の立場からいくつかお聞きしたいので、メールアドレスに連絡をいただけると幸いです。

    フェイスブックにも送ってしまいました。すみません。

    望月そら

  27. このサイトを作ったのは、白血病で入院している時だった。死を覚悟していたが生き延びた。だが今回、肝臓ガン末期で余命6カ月と言われている。是非ともコメントをいただきたい。

    1. 旧姓布川美枝です。館林南幼稚園から中学校まで一緒です。私はテニス部、化学部。前沢君とは化学部で一緒。理科室、ケミカルガーデン、懐かしいです。同窓会で話した映画の話、海外の異文化の話もっともっとしたいです。いつまでも哲ちゃんのファンです。

  28. 前澤先生、お久しぶりです。山梨県立大学国コミでお世話になった吉田均です。
    先生とは、大学ができた時から一緒に教えてさせていただきました。「私はそれは違うと思うな」とよく言われ、よくドキッとし、よく叱られました。ほかの方のコメントにもありましたが、「お別れのコトバをいまのうちに」と言われても、正直困ります。ただ何かを伝えたい、でも何を、何から伝えてよいのか、混乱しています。
    先生、まず初めに伝えたいこと。私も今年62歳となり、退職をすぐそこに感じるようになってきました。こんなに長くこの大学、そして山梨にいるとは思っていませんでした。あと3年で何をするのか、何を伝えるか、伝えるべき何かができたかのか、正直混乱は深まるばかりです。
    でも以前、前澤先生叱られてたことを、よく思い出します。私が、「学生に如何に動機を与えるか」「学生の中に如何に動機を作るのか」という話しをした時に、「私はそれは違うと思うな。動機はすでに学生の中にある」、って言われたことです。そう言われ、本当にそうだと思いました。
    実は今、このメッセージを、学生とのWEBでの就活面接練習の間に書き始めました。今日は、そろそろ断続的に3時間やっています。「では少し時間を置くので、準備ができたらマイクとカメラをオンにして」、なんて言いながらやってます。
    パクリで誠に申し訳ないのですが、よく最後は、「何も心配することはない。大切なものは、すでにあなたの中になる。それを一生懸命相手に伝えていらっしゃい」と言っています。あの日以降、こんな話をする度、先生が頭をよぎります。私の勘違いかもしれません。でもそれが私の中の先生です。まとめの言葉は思いつきませんし、書けませんので、ここまでとします。気が向いたら、また書きます。

  29. 前澤さんと初めてお目にかかったのは16、7年前のことだと思う。父を介して、フィルムコミッションについてのレクチャーをしていただいたんじゃなかったかな。怪しく、鋭い人だという印象を父に話したら、事実か誤報か、数学と哲学を学ばれたというので得心した。前澤さんに会うのは、いつも独特の緊張感をともなう。前澤さんはラディカルでありながら、人や物事に対してゆるやかで、寛容で、値踏みするようなところは全くないのだけれど(くだらない頓着をなくそうとしているし、特に、優劣というものを判断に挟めない)、だからこそ、見透かされてるような気になるし、事実、人を覗き込んで、そのことを通して思考してる様子が、こちらにも伝わってくる。この人はごまかせないと感じていたから、僕が主催していた会でのことだったろうか、僕が地域づくりの現場に立っていることを知って、「あなた、大したもんだね。よくやってるよ」と言ってくださったときは、うれしかった。20代の頃だった。今もこれからも、僕が褒められたいと仮想する、数少ない1人です。そんな前澤さんが大学で教鞭を取られることになって、プレゼンテーションとメディアリテラシーを教えるというから、「えっ」と思って、疑義をお伝えしたら、「確かに、今の子たちは、皆、上手にできるけど、それは就活用とかそういうことであって、本当にやりたいことは何かと聞いて答えられる子はほとんどいないんだよね」とおっしゃって、さすがの眼力に感嘆した。歌舞伎町での還暦のパーティーは忘れられない。あんなユニークなパーティーが出来るのは、前澤さんだけだ。大学での最終講義は予定時刻の随分と手前で終わって、「もうしゃべることがないんですよね〜。なにかないですかね、皆さん」と言っていた。そんな人は、他に見たことがない。白血病で闘病中の病室には、神のいない神棚を置いて、たしか、「宗教を組織するから対立が生まれる。それぞれ自分が神になればいい。1人だけの自分教」みたいなことを言っていた(共同体が持つ排他性についての鋭い指摘だ)。もしも、前澤さんがこの世の人ではなくなったときには(誰でもいつかはそうなる)、前澤さんの考えに背いて、部屋に前澤教のスペースを設けよう。前澤さんがアフリカだかどっかから持って帰ってきたらしいトーテムポールみたいなボールペンがあるから、それを依り代にしよう、ちょうどいい。偶像崇拝だ(笑)。前澤さんのように、混沌と明晰さを持って、どちらをも隠そうとせず、なおかつ行動する主体として生きるのは、今の社会では簡単なことではなく、これまでもこれからも、僕は、内的対話として、そのことを繰り返し前澤さんに問うだろう。おっしゃるように、ある意味では最後かもしれないけれど、そんなわけだから、これからもどうぞよろしく!

  30. 前澤様 FACEBOOKの記事を拝見しました。人間遅かれ早かれ天に召される運命は変える事ができません。
    最近考える事があるのですが、先に天に召されるのと、友人・知人や家族を見送って、沢山の悲しみを味わって最後に天に召されるのと、どちらが幸せなんだろう??と・・・・
    思えば25年ほど前、まだ30そこそこだった私が持ち込んだ「3Dハイビジョンのリアルタイム配信」に真摯に耳を傾けていただき、世界初!のイベントを成功に導いていただいたのは、前澤さんのお力あっての事だと思います。あの時の成功が、その後の私の人生の礎、力になっているのは間違いありません。白血病発症後も元気に世界中を旅している姿を見て「前澤さんらしいな・・」と感じていました。先に天に召されるのと、沢山の人との別れを経験して天に召されるのとどちらが幸せなのか?の答えは見つかっていませんが、次回お会いした時にでもゆっくりお話ししましょう!

  31.  前澤さんと初めて出会ったのは、全国フィルムコミッション協議会総会の場でした。2001年夏に3ヶ月間、韓国に滞在した私は、伝統的町並みについて調査していました。その現地調査で、慶州郊外の良洞村にでかけたのですが、ちょうど映画「酔画仙」の撮影に出くわしました。この映画は後にカンヌ映画祭で韓国人初の監督賞を受賞しましたが、そこで、地域情報を映画にして世界に発信できることを学びました。
     そのころ、上に書き込まれた釜山のフィルムコミッションに関する番組がNHK-BSで放送されました(ジョンピョさんも、ちらっと出てこられます)。帰国後に日本でもフィルムコミッションが続々と誕生して全国協議会も結成されていることを知り、のこのこと映画修行にでかけました。尾道・長崎・秋田などでの総会は、たいへん参考になる地域活性化の試みと関連上映が行われ、とても刺激的な場でした。
     2005年秋からは、2年に一度の山形国際ドキュメンタリー映画祭で、韓国語ボランティアスタッフも2015年まで務めました。先月に閉店してしまった香味庵で、前澤さんご夫妻がプロデュースした映画に沖縄の某女史が猛然と反論されたことは忘れがたい思い出です。昨夏のフィルムコミッション同窓会には、少し遅刻しましたが、出席することができ、懐かしい思いでいっぱいでした。
     今は定年退職後1年半ですが、学部の「地域地理学」という講義で、映画を通した地域活性化をテーマとして半年間の講義ができるまで多くを学ばせていただきました。この講義は今年前期で終わるはずでしたが、コロナ禍で来年度前期に先送りとなりました。長年のご厚情に感謝申し上げます。

  32. 前澤先生
    初めてお姿を拝見したのは5年前の一新塾36期の入塾式の時です。
    半年後の中間発表の際は厳しく叱咤激励して下さいました。その時の想いを胸に、今も当時立ち上げた地域活動のプロジェクトを続けています。青山貞一先生とともに、厳しくも温かく塾生を見守って下さっていることを心からありがたく思っております。
    白血病の際もお元気に戻ってこられました、だからこそ今回もそのパワフルさでもう一度立ち上がって頂きたいのです。
    どうか、どうか、良い方向へ向かわれますことを心から全力で御祈念するものであります。
    一新塾36期・38期 上野義一

  33.  前澤哲爾さま。お別れするつもりは全くなく、また元気にお会いしたいと思っておりますが、facebookに長文を書くと失礼になると思い、こちらに感謝のコメントさせていただきました。
     最初にお会いしたのは一新塾で、ミュージシャンとして覚えていただいていているかいないかしれませんが、前澤さんの斬新なアイデアと素晴らしい実行力に大変影響をうけまして、その後地域活動などかなりマルチに活動することができました。その際、家にも立ち寄っていただき、大学の就労なども教えていただき、またはては不妊治療のことで飯塚医院までご紹介いただくなど、人生の節目節目にとてもお世話になっています。
     HPを拝見すると、学生さんのプレゼン指導から神社まわりのステッカー車から地域活性のヤギ歩きまで、まるシェイクスピアの賢い道化のようでもあり、哲学者のようでもあり、とにかくたくさんの刺激をいただいております。
     また、マイノリテイであり続け、世界を放浪するという姿は私の理想でもあります。溝尾先生からもよろしくお伝えくださいとのことでした。
     山梨が大変に気にいていらっしゃるようでしたので、前々から八ヶ岳の家にぜひおよびしたく、facebookを見てびっくり。でも可能ならこの夏にでも、是非お連れしたいです。
     最近私は、「生きる」(谷川俊太郎作詞)に曲をつけました。前澤さんの気休めになると良いですが。
     https://youtu.be/4TDhgzGtow8 

  34. 前澤様 遅れましたが69歳のお誕生日おめでとうございます。私も、今月79歳になりました。80歳になるのを直前にしても、「自分のことは自分で整理する」ことが出来ていません。否、整理しようと思って、いろいろと屋根裏部屋を片付け始めましたが、何のために片付けているのかをしっかりと意識できていないため、全く捗りません。前澤さんの様に、全てをやり切ったという境地に立てるのは、本当に素晴らしいことですし、羨ましいとも感じます。前澤さんとの出会いは、ハイビジョンですね。私は、もともと電気通信工学を専門領域として放送局での仕事を始めましたが、時代の変化の中でコンピュータシステムに関係し、そしてコンピュータグラフィックスを中心とする映像制作の分野での仕事が中心となっておりました。コンピュータシステムは、正にデジタル技術であり、映像表現の新しい領域を広げるハイビジョンでの活用に、大変興味がありました。そして、そのハイビジョンの仕事では、前澤さんを始め国内外に多くの人々とのネットワークを広げることが出来、私の人生の中でも最も充実した時間を過ごすことが出来たと思っています。そのネットワークを活かして、美術大学での教員を経験することが出来ました。卒業生たちが、それぞれ社会に出て活躍している姿をみることを誇りに思います。さて、前澤さんのブログをしっかり読み返して、もう一度「自分のものは、自分で整理する」ことに取り組みます。それが終わりましたと報告できるまで待って居てください。

  35. 前澤先生
    言葉の選び方が難しいですね。でもあえて。
    「生」が充実するのは、「死」を意識してこそ。つまり、人生が有限であることを意識してこそ。
    永遠の生こそ恐ろしい。
    有限な真っ白なキャンパスに我々には真似できないレベルの大胆さで絵を描かれたのが先生の人生かと。絵の書き方は異なりますが、先生の描きっぷりを意識しつつ、私なりの人生を描いて行きたいと思います。本当にありがとうございました!

  36. 甥です。つい先日琢爾君の結婚式の時はとても元気そうだったので驚きました。先ほど少し声が聞けてほっとしました。子どもの頃、館林のおじいちゃん・おばあちゃんの家に行った時、楽しく話したり遊んでくれてありがとうございました。バリ島に連れて行ってもらったのも、私の人生唯一の海外旅行となり、日本ではないところの空気を感じられて思い出に残っています。哲爾おじさんの自由な生き方全般を見て、「ああ、人生こういう感じでもいいんだな」と、私も希望が持てました。ありがとうございます。私もあと50年くらいこの世を楽しんでいきたいと思います。おじいちゃん・おばあちゃんによろしくお伝えください。

  37. 前澤さんとは1993年のゆうばり映画祭で初めてお会いしました。
    私の自主制作映画「ストレンジ ハイ」を気に入って下さり、声をかけてくれました。
    その年の秋に上田市で開催された「ハイビジョンビッグバン」というイベントを教えてもらい、
    参加しました。
    「ストレンジ ハイ」はその年、PFFアワードでグランプリを受賞し、
    96年には「脳の休日」という映画でゆうばり映画祭オフシアターグランプリを受賞しました。
    その時にもゆうばりでお会いしたと思います。
    「ホームシック」の公開の2000年にもお会いしていたと思います。
    最近は年賀状のやりとりだけでしたが、
    いつも励ましていただき、ありがとうございます。
    まだお別れは言いたくありませんが、本当にありがとうございます。

  38.  てっちゃん、昔々、東校に行っていた小学生のころ、裏宿のてっちゃんちはなんかアカデミックで洒落てて、農家のでかい家の私にはちょっとした異次元だった。
     てっちゃんは頭がよくてお行儀よくて・・・、それが自由な自由な真面目なオジサンになっていた。

     あの東小学校から半世紀!  館林市役所に勤めていたころ、市議会で「フィルムコミッション」について一般質問があり、検索すると「前澤哲爾」の名前があった。マエザワテツジ?めったにない名前!、てっちゃんだ!、そこで、「前澤先生は館林市立東小学校のご出身ですか・・・」とメールをしたのに始まりてっちゃんを囲む会のような同級生の集まりが始まった。小学生のままのつもりで集まったけど、何十年間もみんなそれぞれ自分を育てていて小学生のままじゃなかった。
    てっちゃんは名前のとおり「哲爾」だね。裏宿には能町和子ちゃんの弟さんが住んでる、石井清くんもいる。野辺美智子ちゃん、谷喜代治君、金太郎飴屋の柴田美千子ちゃんの家もあった。懐かしんでも仕方ないか。ではまた。
    ※追伸 伊東(旧姓石井)澄世ちゃんよりメッセージ「てっちゃん強いです。誇りです。また東小学校で会いましょう」

  39. 前澤哲爾さん
    25日はお誕生日でしたね。
    限りある命とお聞きしたばかりだったので「69歳おめでとう」なんて言えなかった。誕生日は何のためにお祝いするのだろうかと思った。若い人であれば、これから訪れる栄光の年月を迎えるのを祝うのかなあ、年寄りには、その歳までよく生きてきたからと祝福するのかな?

    少し考えてご挨拶をと思っていたら、今日27日のfbを拝見し、予断を許さないほどの切迫した状況とのことと知り、ただただ深く心沈んでいます。でも、前澤さんはつよい。私は死は残された人の問題だと思っていた。だが前澤さんはそれに向き合って、自分と人、そして社会との関係で、新たに自分の真理を見極めようとしている。その姿に頭が下がる。

    ハイビジョン関係では、優れた先輩たちを誠に残念なことに失った。
    それはもう終わったと思っていた。
    私より若い優れた人がそうなるとしたら、それ以上に辛く悲しいことになる。

    その時、この写真は私の宝となるだろう。 
    2020.6.27.
    何もお役に立てなかった先輩、手嶋毅。

    maezawat@yahoo.co.jpに写真をつけました。

  40. 前澤さんと初めて会ったのは、中目黒のSONY・PCLのオフィスだったと思う。今から35年以上も前の事だ。何かの仕事だったはずだ。でも仕事の内容はもう覚えていない。覚えているのは前澤さんの人となりだけだ。人懐っこそうな、それでいて何だか脳内では別な世界を旅しているようなそんな雰囲気がとても興味深く感じられたのだ。それから数年間、当時の遊び仲間(SONYの映像プロデューサーのIさんや朝日新聞のI記者等々)とよく一緒に飲んだね。あの時もいつも映画の話をしていたように記憶している。でもいつしか連絡が途絶えた。僕も某公共放送をやめ、あちらこちらを旅して再び某放送局に再就職したりしている内にいつのまにかお互い別な世界の住人になっていのだ。数年前その放送局も定年になり、漸く自分勝手なことができると勇んで自主映画を超低予算で作った。映画は爆音映画祭で上映された後、渋谷の某所で上映された。小さな劇場でほとんど何の宣伝もしなかったというよりお金がなくて出来なった。ところが、その劇場に現れたのだ。前澤さんが・・・風貌こそアーティスト度を増して迫力が備わっていたが、脳内では別な世界を旅しているような雰囲気は昔のままで。嬉しかった。とてつもなく嬉しかった。小さな映画だったけどでも作って良かった、本当に良かったとその瞬間、心から思った。それからお互いの家が近いことも分かり、早速近場の駅で飲んだ。心地好い酒だった。ああ、これからまた前澤さんと時々こうして飲めるんだと思った。だけど残念ながらその続きは今の所まだ開催されていない。きっと前澤さんの事だ。今は、脳内での別な旅を楽しんでいる時期なのだろう。又巷の映画談義したくなったら声かけて下さいね。その時はいつでも馳せ参じるから。あ、そうそう「沖縄 うりずんの雨」の感想もまだしっかりと伝えてなかったし、僕の最新作の映画についても話したいし、話したいことは山ほどあるから、頼むよ!

  41. 足利高校合唱クラブ高音パート同期 : ふるさとは遠きにありて―室生犀星 覚えてますか?  私いま、旧校舎や渡良瀬川を懐かしく思い 歌えます。(低音パートに荒川君がいましたね)
    前澤家の思い出 : 前橋天川町の校長会事務所兼住宅設計・晩年親父さんの為のすまいの改造に携わりました。親父さん・お袋さん共明るい性格でとても面白い方でした。(超好印象) あのご両親あっての前澤かな? もし「どこかで」お会いできたらよろしくお伝えください。
    自分の近況:会社リタイヤして相談役.週2出勤.前立腺ガン治療中.ホルモン副作用で関節痛有り(10年来のギター弾き語り中断・代わりに始めたピアノ弾き語りも症状悪化で中断に追い込まれそう)最後は歌だけのカラオケかな~
    同学年のわれわれは、遅かれ早かれ「いく」のはタッチの差、問題は中身、その点前澤は誰にも負けない人生だと思う。本人も思うでしょ「我が人生に悔い無し」と
    「別れの言葉」これって本当?ドッキリで、だいぶ経ってから元気な写真とお「詫びの言葉」が来るんじゃないか。と58%思っているんだけれど。

  42. 一昨日、田中茂雄くんから聞きました。 高校時代から今も、何かあると“前澤ならどんな反応をするだろうな?”と思うことがたくさんありました。
    これからもそんなことを考えていくと思います。いっぱい話すことがあるので、また話そう。

  43. 田中君から連絡をもらって、びっくりしました。
    思い返すと、
    小学生の時の思い出が、一番強いかなー。
    前澤の家によく遊びにいったなー。きれいな姉ちゃんに合うのが楽しかった。
    前澤に切手と、石を教えてもらって面白かった。
    特に石は、今でも好きで、教えてもらった知識で、ひとに「よく知ってるね!」と言われます。
    一緒に、ハンマーを持って行った長瀞に、何回か言ってみたけど、むかしと全く違っていて、
    河原の、どのへんを歩いたのか、よく分からなかった。
    特にかける言葉は見つからないけど、良い人生だったんじゃないかな。

  44. 前澤先生は私の飲み友達です。
    私は山梨県立大学の1期生です。先生の授業は必修のものしかほとんど聞いていません。なので、よく周りの友人には「前澤先生とゆみって仲良かったんだ!知らなかった。」と言われます。先生には確固たる自分というものがあり、今まで自分を貫き通すことなく生きてきたその当時の私にとっては、憧れの存在でした。授業は取らない、ゼミも入っていないそんな私でも先生は研究室に招いてくれ、よくお茶を飲んだりしながら、雑談していました。お酒が好きなもの同士、よく飲みに行ったりもしましたね。媚びたりする必要のないフラットな会話が出来るのがとても心地よかったです。中国に旅行した際に私がタクシーの運転手と値段交渉で言い合ってるのを聞いて、「もうそこまでしなくていいよ、喧嘩してるみたいなんだもの。」とため息をつかれたのが凄く記憶に残っています。また一緒に旅行に行くつもりでいました。
    先生が人生の卒業の時を迎えると聞き、実感がわかずにいます。また、いつものように突然電話かけてくるんじゃないかと思ってしまいます。娘が大きくなったら前橋に旅行に出かけてロバのおじさんだよなんて紹介するつもりでした。
    最期まで自分をプロデュースする先生、カッコイイです。先生にたくさん話を聞いてもらいたいので、私らしく人生を歩んでみます。先に向こうで1杯ひっかけて待っててください。

    1. 水戸部さんから先生の御様子を伺いびっくりしました。
      先生が大らかにゼミに受け入れてくださらなかったら、私は卒業できませんでした。お陰様で現在、アジアのスタートアップを対象に海外で取材活動をしております。
      先生の「メディアリテラシー」は、田舎の高校から出てきた当方にとって刺激的な授業の一つでした。先生が取材を受ける際には、「どういったコメントを取りたいのですか(その通りに答えますから)と先に尋ねる」のだとおっしゃっていたことを思い出します。今は作り手の方になりましたが、恣意性のある他メディア(特にテレビ、、)の報道を見ていると、子どもにしっかり教育していかないとと感じます。高校や中学で授業があっても良い!とも。
      先生の笑顔と鋭い眼差しが思い出されます。あとお車のダヤンのステッカー。
      先生にご鞭撻いただいたことが血肉になっております。本当にありがとうございます。

  45. FCでのお知らせ見させてもらい驚きました。顔を見ながら話しをしたいと思っていましたが、……今日連絡いただいた時は一緒に一杯飲める話かなと思い受話器を上げました。でも、違いました……自分もガンサバイバーなので常に考えてはいますが………。自分は毎年人間ドックで検査をしています、年齢は同じで一ヶ月違いです。
    前澤さんとの出会いは、全国FCの設立の時ですね、世界のロケを日本に(ブラックレイン後海外のロケは無し)、ロケのしやすい環境を作ることが大事。全国の地方都市をFCにより活性化させ・日本の映像文化と更なる普及発展ができると語り、そのために何をしていかなければ行けないのか?そこで日本FCを立ち上げて行くのだと、もちろん松本も同感。設立当時の仲間は、東京での会議の後、呑みながらそれぞれの思いや悩みを熱く語った事を思い出します。あの時、前澤さん先頭に集まった仲間のことはいまだに忘れることはありません。松本でパク監督と語ったり、全国FCの総会及びAFCの設立総会を開催したり……刺激的でした役所を卒業してもいまだに付き合っています、それを作ってくれたのが、前澤さん貴方です、この思いを誰が続けてくれるんですか?奇跡は起こって欲しいと思います‼️自分の人生の中でこういう仲間がいたことは幸せです。若い人達に人生悔いの無いように精一杯生きてもらいたいと語ります。奇跡が起きたらゆっくり酒を酌み交わしながら語りたいと思います。

  46. 前澤先生お久しぶりです。国コミュ4期山田亜友美です。
    先生のゼミ生でした。覚えていますか?
    就活のエントリーシート作りで本当に本当にお世話になったこと、私は忘れた日はありません。ありがとうございました。
    「他人の言葉には常に疑問を持つこと」私が先生から学びとった1番のテーマです。先生のことを尊敬するに至った大きな理由のひとつでもあります。そのせいか歳と共に偏屈になってきた気がしないでもないですが笑
    現在2児の母となり全く失ったハングリー精神と好奇心。先生の写真と過去の投稿を見て、学生時代先生と話す時、いつもどこか緊張していたことを思い出しました。そのスリルが病みつきになっていたことも。それが先生の大きな魅力でした。
    大袈裟に聞こえるかもしれないし、こんなタイミングだからと思われるかもしれませんが、実は私は県立大学で先生と出会って価値観が大きく変わりました。本当です。マイノリティを楽しむことを知ってしまったのです。
    こんなにも影響を受けたのはこれまでもこれからも前澤先生以外にいないと感じています。
    素敵な出会いをありがとうございました。

  47. 前澤先生、山梨県立大学一期生の萩原舞(森浦舞)です。
    私は、今思い出しても何を頑張っていたのかよく分からない学生でした。(ただ、とにかく楽しかったし、愛しい日々ということは間違いありません)

    前澤先生にはYDPのはじまりの頃、お世話になりました。YDPやフィルムコミッションのことをよく理解しておらず、「楽しそう」という直感で参加したためニーズを理解しておらず、とんちんかんな事をしていて、きよちゃんや先生は呆れていましたね。(恥ずかしい)

    私はあの頃「自分」というモノがなかったので、先生と一対一でお話しするとそれを見抜かれ何も答えられなくなる自分が容易に想像できたので、先生と深く関わることができずにいました。

    今は、そんな過去の自分も許すことができたので、このようにコメントしております。(「許す」って大事ですネ)

    どきどきする授業
    YDPの活動で訪れた場所で見下ろした桃畑が美しかったこと
    味匠で飲み会をしたこと
    先生がカラオケで「歌舞伎町の女王」を歌ってくれたこと

    思い出されます。

    そして、卒業後何年かして集ったパーティーで、ジブリのキャラみたいに髪やお髭が長い先生の優しい笑顔☺️に再会できたとき「あれ、前澤先生ってこんなにふんわりした面もお持ちなんだ」って思ったことが一番印象的です。(きっと昔の私では感じることができなかっただけです)

    ご病気のことを知って「なにかできることはないのか」とおこがましくも私なりにたくさん考えました。
    考えたくせに考えなしで伝えてしまったから、「先生ごめんね」って心から思っています。

    そして、そんな私にも一言くださる先生は、やはり愛の人だなって思います。

    先生、ここには先生からいただいた愛を受け取って、自分の人生の栄養にしてきた方がたくさんたくさんみえてコメントを残しておられますね。
    こんなに影響力のある方って、なかなか出会えません。

    書いている人も、書かないけれど見ている人も。みんな前澤先生からの愛を受け取り、それを先生にお返ししたい、伝えたいと思っていると感じます

    大学時代、いろんなことを怖がらずに、もっと前澤先生とお話できる私だったらよかったな、と少し後悔してしまいますが、このようにまた「再会」できたラッキーに感謝しています。

    先生。先生は私のこと覚えていないかもしれないけれど、先生のような方と出会えたことは、私の人生の宝です。

    出会った頃の前澤先生も、今の前澤先生も、どんな先生も大好きです

    長文失礼いたしました。

  48. 先生お久しぶりです。山梨県立大学一期生の内藤太一です。

    大学卒業後、消防の道に進み、今は救急命士として働いています。

    卒論発表(日本の消防団とドイツの消防団について)の際、先生から「まさにグローカルな発表ですね」と言って頂いたことを今でも覚えています。

    私の目標は先生のように悔いのない人生を送ることです。

    今まで本当にお疲れさまでした。

  49. 一新塾15~19期でお世話になりました。
    大分時間が経ってしまいましたが、講義で印象に残っているのは、「プロジェクト内で恋愛はしないこと!」です。
    一新塾の講師の方はみなそうですが、結果を出す方だな、という印象があります。
    映画のエンドロールで各地のフィルムコミッションの名が出るたびに、前澤さんのことを思い出します。

  50. 小松原君から前澤君の病状を聞きました。よねやで会った時、優しい笑顔で名前を呼んでくれ、嬉しくなりました。もっともっと話をしておきたかったです。館林二中で出会った時からよく勉強のできる人でした。
    一会社員、一大学教授におさまらず、映像、映画の世界で多くの種を蒔き花を咲かせ、作品を作り、人を育て、組織を立ち上げ、大きな影響の与えました。
    「沖縄 うりずんの雨」はDVDで見ました。私の好きな沖縄の映画の一つになりました。その製作にご夫婦で関わっていたことを知り驚きました。今度会った時には、ぜひ中国映画(哀戀花火、太陽の少年、ラストエンペラー、妻への家路、芳華、活きるなど)、韓国映画(国際市場で逢いましょう、母なる証明など)について話を聴けれな幸いです。楽しみにしています。私が挙げた映画は私の好きな映画ですので、お勧めの映画がありましたら、教えてください。
    お見舞いに行けず、申し訳ありません。お大事になさってください。

  51. 白血病になられた時も復活されたので、今回も、と心のどこかで思っています。
    先生とはYDPの活動とかでご一緒させていただきました。また何度か中国各地の山々の登山をご一緒させていただきました。泰山の山頂で一緒にタバコを吸ったのはいい思い出です。
    「それはナンセンスです」という言葉を言っていましたね。私はこの言葉好きで、今も思い浮かびます。
    なんて言葉をかければいいかわかりませんが、また、先生に会いたいのでこの言葉にします。
    再見!

  52. こんにちは。姪の友里です。
    他の方々のコメントが私からすると色々とすごいので、私は何を書けば良いのか正直分からないです。

    子供のころ夏休みに館林に行った時に会える琢ちゃんのお父さんで、何か色々している叔父さん。
    琢ちゃんのことが羨ましかったです。

    私は未だに、この社会?世界?での、そもそもの人付き合いとか働き方とかがよく分かっていません。
    「なんでそんなことも分からないの?!」と他の人からすると呆れるような根本的な部分から、何でそういうことになってるのかを理解することができないので、その辺の無知さを見透かして威圧してきたり利用してくるタイプの人と遭遇してきました。
    生きているのが辛いと子供の頃からずっと思い続けたまま、死なないから生きているだけの人間です。

    本当はしたいことも色々あるけれど、今の状況だとしづらいことばかりです。
    漫画のアシスタント業は辞めました。あてもないのに開業届を出したけれど、制度的なことでよく分からないごちゃごちゃしたまま結局今、失業保険貰いながら職業訓練でWebサイトを作る授業を受けています。
    すごく学校みたいなところで年下ばかりだけど、みんなちゃんと色んな経験値積んできていてすごいです。
    子供の頃は本当に学校が生き地獄みたいに嫌だったけれど、職業訓練自体は楽しいです。
    この先どうなるかは分かりませんが、死ぬまではやっぱり頑張って生きていかなきゃなんだろうな〜って感じです。
    明るいこと書けなくてすみません。でもこれが私の実際のところ、近況です…。

    哲爾おじさんの体調が悪いという実感がありません。

    「ロバおじさん」良いアイデアだと思いました。

    「書き下ろしプロフィールの勧め」面白かったです。全部読みたかったです。特に<番外編>を。

  53. こんにちは。前澤さん(先生と言わないで、と言われていたので、さん、でいかせていただきます)との出会いは大学でのインタビュー。渋谷の「丸善」の隣のカフェでもお目にかかりました。前澤さんのおかげで、大学という新しい場所を体験できる機会をいただきました。ありがとうございました。
    僭越ながら、前澤さんを僕なりの言葉で表現すると「創造を体現する人」です。
    ハイビジョン、映画、フィルムコミッション、学生の学び、旅、人生。そして、この「お別れの言葉を事前に集めるプロジェクト」なんて、見たことがないクリエイティブなプロジェクトです。
    自分が創造しようと思えば、創造できないものはない。人は、自分が創造したいと思えば創造できる。このことを身をもって見せていただきました。
    「死者には声が聞こえない」と書いていらっしゃいましたが、前澤さんなら「別の世界の声を聞くプロジェクト」を別の世で創造できるのではないでしょうか。

  54. 哲ちゃん、お久しぶりです。哲ちゃんへお便りができるなんてとても嬉しいです。和子ちゃんから昨夜連絡がありました。思い出を話します。小学3年の頃だったかな。哲ちゃんの家に遊びに行かせていただきました。哲ちゃんは床下に収集していた石の標本について詳しく説明してくれました。私は知らない世界に驚き、その後は岩石についての本を読み始め、必死になって石の名を覚えようと努力したことを思い出します。中学3年で同じクラスになりましたね。確か哲ちゃんは男子から博士と呼ばれていました。あの頃の私にとって哲ちゃんは全てにおいて雲の上の存在でした。ありがとうございました。

  55. 思い出
    ①母が「てっちゃんは2才頃までお乳を飲んでいたんだよ。」と言いました。裏庭で母がバケツに乳を搾っているのを見ましたが、哲爾さんに上げた残りだったんですね。
    ②カレーを家族で食べた後、鍋にご飯を入れてカレーがなくなるまできれいにして、二人で分けて食べました。
    ③私が遊んであげないと追いかけてくるのでトイレに逃げ込みましたが、いつまでも(他の人が入りに来るまで)戸の外で待っているのでこわかったです。
    ④小学生の頃、自転車の後ろに私を乗せて、日が暮れるまであっちこっち行って、楽しかったです。
    ⑤裕福ではなかったので父が駅の売店でジュースを買う時は1本で、ストローを2本もらってびんに入れて、にらめっこしながら競争で飲みました。
    ⑥子供の頃、友達と近所の家の柿を取り、おじさんに見つかって友達はみんな逃げてしまいましたが哲爾さんだけ捕まり、おじさんが家に怒りに来ました。
    ⑦哲爾さんが幼児の頃、兄弟や親戚のお兄さんとトランプの「神経衰弱」をしましたが、カードを全部覚えているのでみんながびっくりしました。記憶力がすごくて、日本の「市」の名前を全部覚え、父を喜ばせました。中学の生物の先生が私に「弟さんは石について私より詳しいね。」と言っていました。私には分子の構造などを教えてくれておもしろかったです。
    ⑧母が「高校の弁論大会の前に夜中に河原(?)に行って、大きな声で話す練習をしているらしい。人知れず努力しているんだよ。」と言っていました。母は「明け方に自転車の練習をさせてくれたので自転車に乗れるようになった。」とも言っていました。
    ⑨息子・娘が小学生の頃、「実家しか泊りの旅行に行ったことがない。」と言ったら、石内スキー場へ家族を誘ってくれました。
    ⑩高速道路で運転する勇気が出たのも哲爾さんが先導してくれたからです。その後、息子・娘が県外のアパートに住むようになったりして、とても役に立ちました。
    ⑪連れて行って頂いたスイスの山はスケールが違いました。日食の時は曇天でしたが、異様な雰囲気は味わえました。人生の中で大きな経験でした。
    ⑫人目ばかり気にする私に「そんな必要ない。」と言いました。そうだと思いました。好奇心・勇気を持って、やりたいことを実現させ、普通の人の何倍も充実した人生だったと思います。そして、私たちにも幸福のおすそ分けをたくさんしてくれました。有難うございました。

  56. 思えば中学校で頭の良いまた一風変わった貴君と出会い、化学部や天文観察、中学時代の幼い恋、色々思い出されます。
    良い刺激や影響を受け、中学卒業後はそれぞれの道へと進み、私はテレビ関係の仕事を目指し地元のテレビ局に就職しました。
    ある日、ソニーPCLに入社した貴君から、大朏と同じテレビ関係の仕事を始めたよ!との事でした。
    その後の活躍は目覚ましく、テレビがハイビジョン方式に変革するときの技術を模索、勉強する中で映像新聞にハイビジョンに関する前澤哲爾の連載寄稿記事は何度も読み返し、友人として誇らしい思いでした。
    その後のソニーPCL以降の活躍はこれまたあっぱれで友人として誇りです。
    今後、私と同じ前橋で暮らすということで楽しみにしていました。ロバを飼うことも打ち明けられ、まあ無理であろうと思いつつも、飼育等振られることも覚悟はしていました。
    前橋に来た時二人で飲んで語った楽しい時間をありがとう。半世紀以上にわたり友人でいてくれてありがとう。

  57. 河内智之と申します。一新塾27期OBです。当時の「理想の学校を創ろうプロジェクト」を土台に教育活動を継続しています。いつも前澤先生の愛ある辛口コメントを楽しく聞きつつ、学びにしていました。

    前澤先生のコメントや生き様から「自分を受け入れ、自分を愛し、責任と自由を謳歌せよ」と、その教えを勝手に解釈していますが、そこに一歩でも近づけるよう生きていきます!

  58. 前澤さん
    ご無沙汰しています。シャプラニールの秋の祭りのボランティアで息子さんと一緒に説明会にいらしたのが私と、いやシャプラニールと前澤さんの出会いだったのでしょうか?おそらく1996,7年だったと思います。その後役員を長きにわたり務めていただき、その間中高生のスタディツアーで多くの感染症を出した時には、お連れあいにもアドバイス頂いきました。困った時に誰かが助けてくれる。そんな思いを強くした出来事でした。わたしからは何のお助けもできませんが、前澤さんの生き様、自分にはできませんが大変羨ましく思います。
    最後まで皆を驚かせ続ける前澤さんであってください。
    ありがとうございました。

  59. 前澤へのたより                          R2.6.28

    追憶の中から

     ■令和2年(2020年)6月27日(土)12:40
     君からの久し振りで突然の電話の内容に驚愕し言葉を失う・・・。

     ■昭和44年(1969年)春
     静岡大学片山寮の一室で君との運命の出会い!!
     「東京教育大学も受かったけれど化学を勉強したかったので静岡大学へ来ました。」との動機や、二人の兄は東京教育大学と京都大学を卒業したと、涼しい目で語る君の雰囲気から田舎出身の私には家柄の良さと頭の良さを感じさせられました。
     ■二人の交流
     純粋で素朴な日々の青春時代は屈託のない会話と日常の行動になりました。
     わずかに年上の私はマエザワとの交流を楽しみました!
     心の解放と至福のひと時・・・。
     1年ほどたって「化学にあまり興味が無くなったので、もう一度自分なりに好きになれそうな学問を求めて中退する・・・」というようなことを言って静岡を去っていきました。
     ただ眺めるだけの私・・・。
     その後、年1回の年賀状だけになり、私は地方自治体職員になり、君は慶応大学文学部で美学を専攻して大学に勤めることになったのを知りました。

     ■平成27年(2015年)8月30日
    突然の電話で、奥さん同伴の大学教授になった君と能登里山空港で再会することができました。時の流れが逆回転しました・・・。

     ■そして今
     どうしてこんなことになるのだ・・・。マエザワ生きろ!!

                      能登半島の寓居にて君を想う

  60. てっちゃんこんにちは。
     東小学校のころ、裏宿のてっちゃんちはおしゃれでアカデミックな感じ、農家屋敷で育った私には軽いショックでした。能町和子ちゃん、石井清君、野辺美智子ちゃん、谷喜代治君、金太郎飴屋の柴田美千子ちゃん、、 ALWAYS三丁目の夕日の頃だったのですね。
     あれから何十年!、私は毎日つつじが岡と城沼を見て、どっぷり古里の田舎町に浸かって暮らしています。
     
     館林市役所に勤務していたころ、フィルムコミッションを検索して見つけた“前澤哲爾”の名前。そうそういない名前だ、てっちゃんに違いない・・・「前澤先生は館林市立東小学校のご卒業ですか・・・」とメールしてフィルムコミッションについて教えていただきました。
    そして始まった「てっちゃんを囲む会」のような集まり。9月第2土曜日の午後7時。
    小中学生から半世紀、それぞれ自分を育てて、みんな小学生のままじゃなくなっていた。てっちゃんはあのシールいっぱいの車!、おヒゲ!、可愛かったてっちゃんがどうしたのかしらと思った。でも、てっちゃんは自由で真面目で冒険する哲学者?になっていたんだね。HPを見せてもらい、てっちゃんをほんの少し垣間見たような気がします。
     ではまたね。
     

  61. 前澤さんは覚えていないかもしれませんが、ビックリした後に(縁だな)と思ったのは、たまたま実家に寄った帰りの小田急線で後ろに前澤さんが立っていて驚いて声をかけた時です。たぶん2003年でしょうか。また、新潟でのシンポジウムで「フィルム・コミッションの可能性」についてプレゼンをした時に前澤さんが喜んで感想を述べてくれたことを覚えています。

    私はフィルム・コミッションの可能性に賭けて転職した身なので、この先もフィルム・コミッションをライフワークとして続けると思います。まだまだFCは“伸びしろ”があると思っています。前澤さんとFCにかかわれ、多くを学び、可能性を描くことができました。
    これからのFC に期待してくださいね!

  62. 「猫好きのおじちゃんだ!」と思ったのが前澤さんの第一印象で、2019年夏のトルクメニスタンでした。魚の骨の形をした髪飾りをつけていましたね。

    同じツアーに参加していて、飛行機では2回も隣の席になるという偶然も重なり、色々お話しをする事ができました。
    そこから私にとって非常に影響力のある友人になるとは思ってもみませんでした。

    一緒にご飯に行き、そこで前澤さんの話を聞くのが本当に楽しみでした。非常に興味深い内容が多く、色々とメモを書き留めていたくらい。

    弁髪の話、秦の始皇帝の話、ニカラグアの話、独裁者の話、イスラエルとパレスチナの話、メッカの話、ロバの話、神社のおみくじの話…。
    私が常々疑問に思っていた事に答えてくれたり仮説を立てたり一緒になって考えてくれましたね。

    お椀に乗って川下りをしている小さいお兄さん(一寸法師)が三蔵法師だとずっと勘違いをしていた私に「それも面白いストーリーかも」と言ってくれた時。前澤さんはどんな人に対しても決して相手を見下さず、優しい、偉そうに威張らない姿に気付いた時は「本当に強い人間と言うのはこの様な人の事を言うのだな」と思いました。

    前澤さんに会う度にそれは感じます。尊敬しています。尊敬している人から言われた言葉やアドバイスは素直に受け入れる事ができます。私の人生の中で一番影響力のある人です。それは今後もずっと「一番」に変わりはないでしょう。

    親子ほどの年齢差を超えて交流して下さった事に感謝です!

  63. 前澤くんへ

    別れがあるということは出会いがあったから。 出会いは中学生。
    中・高とも同じ学校に通ったが不思議と同じクラスになったことがない。接点は少なかった。
    中学当時は天体観測が流行っていた、「池谷・関彗星」発見のニュース(1965年)が子供たちの心に火をつけたのだ。アマチュア天体観測家がヒーローになれた時代だった。私も感染した。
    「天文ガイド」を愛読し、天体望遠鏡が欲しくてたまらなかった。レンズを購入して自作したが、それはただの望遠鏡。赤道儀式でないと星を追跡できないことがわかり、あきらめた。その時、前澤くんは赤道儀式の天体望遠鏡を持っていたのだ。両親が教育者の家庭は良いね。赤道儀式を理解してくれるので。

    前澤くんと親しく話をするようになったのは館林二中の生徒会からだ。昭和41年(1966)のことだ。
    生徒会メンバーは同じ高校へ進学した(足利高校)。田舎なので通学電車の時間がいつも同じになる。(本数が少ない)
    それが仲間意識を成長させたに違いない。おかげで当時のメンバーと今も親しく交流が続いている。

    昭和44年、進学を控えた高3の夏、暑い館林を離れ、長野の上田近郊・青木村に学生村があり参加したいと思った。
    一人では親の許可が出ないので、前沢くんを誘った。 即、OK! その判断の早さに驚いた。行動に迷いがない。
    電車で上田まで行き、上田からローカルバスで山奥の終点、そこが青木村。(近くに別所温泉がある)受け入れ先の民家は広い農家だ。寝泊まり兼勉強部屋は8畳、それを二人で使用する。
    他に東京から数人の受験生が勉強に来ていた。学生村といっても塾の先生がいるわけでなく、静かで涼しい環境を提供するだけだ。勉強は自助努力である。
    同室で机を並べ受験勉強!前沢くんは真面目に取り組んでいた、素晴らしい。
    私は親元を離れた開放感と信州の快適な環境の中、外で遊ぶ時間が増えていった。(夏休み直前に観た映画「ロメオとジュリエット」のオリビア・ハッセーに夢中!メインテーマ曲が頭の中を常時流れていた。)休憩時間は村の共同浴場へ、そこは源泉掛け流しの温泉。いつでも利用できた。二人で温泉につかり温泉を飲んだ。(泉質は優しく、飲めば胃腸に効能があるという)
    毎日が楽しく、あっという間のひと月だ。勉強の成果は期待できなかったが、自然豊かな信州の村で人生初のロングバケーションを満喫できた。前沢くんとのひと夏の共同生活は楽しく終了した。

    しかし勉強の成果は明らかだった。私はほぼ全ての大学を滑り、前沢くんは国立大学(静岡大)へ進学した。
    私は都会へのあこがれが強くて、前澤くんはなぜ地方の大学に進学したのか理解できなかったけど・・・。

    1970年大学進学。当時は今と違い、学内では学生運動がさかんであった(もちろん下火になっていたけれど)
    意識高い系の学生は学生運動に関わった。前澤くんは当然ながら関わっていたと思う。(静岡は遠いので事情は明確ではないけれど)
    私は意識自分系なので、学生運動は美しくないと感じてシンパになれなかった。メットと覆面タオル、ゲバ棒。ファッションだと感じた!(吉祥寺に住んでいたので学生運動より、フラワームーブメントの方へ気持ちが傾いていた。)

    大学時代の交流はあまりない。
    前澤くんは映画への興味が沸騰し東京の名画座へ足繁く通っているとの情報が届いていた
    その後の情報では、なんと静岡大を退学して再受験するということだった。しばらくして慶応大学文学部美学を専攻する学生となっていた。理系からの大転換だ。転身が早い。

    『うつつの実朝』
    慶大時代に自主制作映画を作った前澤くん。制作仲間を組織し、鎌倉で撮影。今に通じる行動力だ。(人を集める能力が高い)作品の題名は素晴らしい。私は完成品は観ていないが想像はつく。(期待してないということだけど・・笑)それにしてもケータイもネットもSNSもない時代なのに、不思議なほど情報が伝わってきた。人間社会が人とのつながり=情報でできている証しだろうか。人はいつも情報を欲している。慶大時代、私が知るエピソードがふたつある。

    1)『新聞切り抜き情報配布バイト』
    前澤くんの不思議なバイト。新聞の切り抜きをセレクトし、編集してそれを必要とする会社へ提供する。ネットの無い時代の検索ソフトの原型みたいなバイトだと思う。

    2)『記号論(構造主義)研究会』前澤くんが組織した勉強会で、当時話題だった記号論(構造主義)の読書会だった。これは興味があり参加した。当時の私はデザイナーの駆け出しで、毎日デザインの仕事で格闘し、悩んでいた。記号論(サインの話しなのか?デザインに役に立つかもしれないと思った)に興味を持つ。4〜5回参加した。勤務先の部屋を勉強会に提供したこともあった。ソシュール「一般言語学講義」、ジャック・デリダなどのテキスト読解だった。難解な内容に思えたが普通のことを難しく書いてあるだけだと思った。哲学の単語・用語を覚えただけにすぎなかったけど。デザインの質が上がったとは思えない。笑い!

    『ソニーPCL』
    前澤くんの就職先だ、映画と関係する良い会社を選択したと思った。運をもっている。さらにその会社には郡司さんという(現在も何冊かの著作がある)良き時代のソニーを体現していた上司がいた。運を引きつける能力はいったいなんだろうか?
    デザイン事務所として独立した私にある日、仕事の依頼がきた。映像業界紙のつきあい広告だ。(広告といっても、業界紙の穴埋め的な広告だけど、全力を尽くした)1980年代早々の頃だ。同級生からの仕事の依頼は嬉しい。ありがたい!記憶に残る仕事となった。内容は忘れたが。

    前澤くんの偉大な業績『フィルムコミッション』
    館林二中同級生の仲間で時々集まりがあった。何年だったか忘れたが新宿の居酒屋で集まった。その時の前澤くんの宣言が今でも記憶に残る。『今年は日本で映画撮影の支援組織・フィルムコミッションを作る』と宣言したのだ。壮大な計画だったがソニーPCLでのネットワークと彼の組織力・行動力なら可能と思えた。今ではフィルムコミッションは普通に使われる用語であるが当初、違和感があった。日本になじまないのではないのか、広告的にもっとわかりやすいネーミングはないのかとも提言したけれど、結果は前澤くんの予想通りとなった。普及した。
    ネーミングでは当時の都知事・石原慎太郎も違和感を感じたらしく「東京ロケーションボックス」というネーミングを独自に採用。ただし、あまり定着してない。

    『大前健一 一新塾』
    この活動はほとんど知らない。同級生それぞれが皆、仕事に熱中していた時期なので、余裕がなかった。1995年大前健一が東京都知事選挙に立候補、参院選にも立候補。その選挙活動をお手伝いした前澤くんの話はおもしろい。大前健一のスピーチがまったく聴衆に伝わらない、コミュニケーションが取れないという。庶民の分析は理論外であったらしい。惨敗だった。
    以後、大前健一は「一新塾」を創設して人材育成に力をいれる。その功績は大きい。前澤くんはその講師となり理事にもなった。私の住まいのベランダから一新塾のオフィス・大前ビルがよく見える、同じ町内なのだ。大前ビルを望むたびに想い出す。

    「山梨県立大学」
    ソニーPCLを退社しフリーになった直後、大学の先生になったと連絡があった。 教育は前澤くんの天職であったと思う。人に影響を与える力が強いからだ。
    彼の明るい笑顔と行動力が人を動かす。生徒は先生の行動をよく観察している。
    2013年、嬉しい依頼があった。それは大学で特別講義をして欲しいとのこと。メディア論の授業の一環でメディアで働く現場の話しを希望されたのだ。学生相手に授業をやりたかった私は喜んで準備をした。講義用の資料(A4サイズ4ページ)を印刷し、万全の準備で臨んだ。ココまで準備する人は少ないと思う。
    1月21日、山梨県立大学で「メディア制作の現場」を講義(コンペについてお話しした)。生徒の反応も上々だった、嬉しい。講義終了後、前澤くんと食べた名物ほうとうは美味しかった。(一仕事成し遂げたからだと思うけれど)良い想い出になった。 生徒に慕われる教授としての前澤くんをみたことも良かった。

    前澤くんとの交流を時系列に列挙しようと試みたが、やめにしよう。無理だ。とても長い時間を共有していることがよくわかった。
    前澤くんの結婚式のこと。新婚時代の前澤夫妻の宿泊先(谷川スキー場)におしかけてスキーを楽しんだこと。前澤くんの奥さんにぴあの広告に登場してもらったこと。前澤くんの還暦パーティーに招待されたこと、(真っ赤なスーツが漫才師のようで面白かった。笑)
    還暦を過ぎてからの私の地域貢献活動「館林城の再建をめざす会」のデビューイベント『よみがえる館林城展』に夫婦で参加してもらい面白いと誉めてもらったこと。
    館林藩医・長澤理玄200歳の誕生会にも来てもらったこと。友人の父である織物職人(作家)の作品集を作り展覧会を開いた昨年、会場に来てもらったこと。

    運動が得意でないと思われていた前澤くんの泳ぎがしなやかで水にのっていたこと・・・・・。(館林市民プールで)
    毎年の年賀状を楽しみにしていたこと。宛名の文字が達筆すぎること。
    2020年の年賀状に書き添えられた「ロバを飼う」に驚いたこと・・・・・想い出すことがたくさんある。

    楽しかった、ありがとう。

  64. 哲ちゃんとの思い出は懐かしく胸に響きます。小学3年生の頃だったかな。哲ちゃんの家に遊びに行きました。ゴソゴソと床下から収集していた石の標本を出し詳しく説明してくれました。私は知らない世界に驚き、その後石についての本を読み始め、必死になって石の名を覚えようと努力したことを思い出します。その日は家の中に入れていただき、おばあ様からおやつをごちそうになったような記憶があります。中学3年は同じクラスでしたね。哲ちゃんは男子から博士と呼ばれていました。あの頃の私にとって哲ちゃんはすべてにおいて雲の上の存在でした。ありがとうございました。

  65. 小松原君から前澤君のことを聞きました。よねやで会った時、優しい笑顔で名前を呼んでくれ、嬉しくなりました。館林二中で出会った時からよく勉強のできる人だと思っていました。やはり日本や世界で活躍される人になりました。
    一会社員、一大学教授におさまらず、映像、映画の世界で多くの種を蒔き花を咲かせ、作品を作り、人を育て、組織を立ち上げ、大きな影響を与えました。
    「沖縄 うりずんの雨」をDVDで見ましたが、その製作にご夫婦で関わっていたことを知り、驚きました。今度会った時には、ぜひ中国映画(ラストエンペラー、哀戀花火、太陽の少年、芳華、活きるなど)、韓国映画(国際市場で逢いましょう、母なる証明など)について現地のことを交えながら話をじっくり聴かせてもらえれば幸いです。楽しみにしています。私が挙げた映画は私の好きな映画ですので、お勧めの映画がありましたら、教えてください。
    前澤君と出会えたことに感謝しています。お大事になさってください。

  66. こんばんわ。はや、2020年のオリンピックは、閉幕となりましたね。 MMといいます。ふふふ、品川区に住んでいます。
    横浜市日吉の出身です。家庭を守る、まず、人間にとって大事なのは、home, familyと考えているひとです。でも、年間90日は、大学卒業後の23年間くらい、ずっと家にかえらなかったですね。
    履歴は、、?◎幼いころから、新聞記者、journalistをめざしていました、ジャックリーン ケネディさんが憧れの女性なのです。新聞部や報道部の部活動を小中高校で、行なっていました。けれども、別の方向に進学しましてので、とりあえず、お仕事を頑張る方向にいきました。ジャーナリスティクに活動したい、という気持ちを具現化してもらいたく、慶応義塾大学の美術鑑賞会で知り合った、あなたに、自分の夢を少し託したのです。

  67. 前澤さん
    再度の闘病は本当に辛いと察します。
    しかし、絶対なんてことはないので、厳しい状況を乗り越え1日も早い回復を願っています。
    中学でいっしょになってから前澤さんからはいろんなことを教えてもらいました。
    この「絶対はない」もその中の一つで、「絶対的に悪いことなんてない」を例に頭の悪い私に丁寧に説明してくれたことをよく覚えています。
    また、博学でありながら哲学も持っていて、私にとっては尊敬と憧れの的です。
    ぜひ、新型コロナで行きそびれた外国に再度チャレンジしていただきたいと思います。
    これからも期待しています。

  68. 前澤先生、大変ご無沙汰しております。
    山梨県立大学1期卒の山本真知子です。
    昨年(やっと)結婚して、名字が高田になりましたが、仕事も旧姓で続けています。

    大学卒業後から渡タイし、丸11年が経過しました。

    前澤先生といえば、私の中では「車に100万回生きたねこのステッカーを貼っている先生」と、
    「メディアリテラシーの先生」というイメージが強く残っています。
    前澤先生ご自身も、なんだか猫のような方だなとずっと思っていました。
    何物にもなびかず、自分のあるべき姿・ありたい姿を貫かれ、夢を追う姿は本当に素敵です。
    100万回生きたねこのようにたくさんの人に影響を与え、愛されて、
    そしてまた「前澤先生」として、ぜひ生まれ変わってきてほしいです。

    そしてメディアリテラシーという言葉と、メディアの見方・捉え方を人生で初めて教えていただいたのは、前澤先生でした。
    純粋に流れてくる情報・目に入ってくる情報を信じればよいという訳ではない、という考え方を今も大切にしています。
    世の中、操られた情報、偏った情報があまりにも多くて辟易としますが、
    正しいものを見つけようという気持ちや、五感や情報収集力を鍛えるためだと前向きに捉えるようにしています。

    今後、(勝手に)先生を見習っていきたいことは次の2つです。
    ①マイノリティでありたい(それを怖がらないで貫く勇気を持つ。)
    ②世界中・日本中を巡り、見聞を広める
    (最近、ブータンやヨルダンへも行きましたが、まだ13か国なので先は遠いです。日本は残り13県位…。)

    まだ実感がわきませんが、後悔しないようにまずは上記のメッセージを先生へお伝えしたいです。
    このような機会をいただき、本当にありがとうございます。

    2020年6月29日(月) 山本 真知子

  69. てっちゃんこんにちは。
    五月女光子(旧姓高松)より下記のメッセージです。

     近所に住んでいたあ(旧姓)高松光子です。
     中学校を卒業してからお会いしてませんが覚えていますか、私は現在羽生市に住んで平凡に暮らしております。
    小さいとき一緒に遊びましたね。谷君のおうちの庭で男の子はメンコやべーゴマ、女の子は谷君もは入ってゴムとびや石けり、楽しかったです。
    私は引っ込み思案でぐずな子供でした。てっちゃんはあの頃から物知りで賢くて別格でした。そしていつもニコニコしてました。
     以前、早朝のテレビ番組で拝見しました。とても立派に活躍されていて、私とは住む世界が違うのだと感じたものです。でも、好奇心の固まりのような笑顔は幼い頃と変わらず、うれしく懐かしかったです。
     東小の同級生からてっちゃんの話を聞きました。あのころの家々の佇まい、垣根や畑の様子が思い出されました。
    何より、てっちゃんの笑顔が思い出されました。突然の手紙で驚かれたでしょうが、ペンを取らずにはいられませんでした。
    令和2年6月28日 五月女光子

  70. てっちゃん、続いて半田和子(旧姓荒井)からのメッセージです。

    ●小学生の時、てっちゃん家に数人で遊びに行きました。私はたぶん誰かの後を付いて行ったのだと思う。家にはおじいちゃんがいらしたと思います。
    てっちゃんは天真爛漫で誰でも分け隔てなく一緒に仲間に入れてくれましたね。前のお家(赤坂せんべい屋さん)のコ叔母しい匂いがし急に食べたくなった事も。塀の穴からせんべいが並んでいるのを見ることが出来たのしかったぁ。
    ●ピープルでまだ10人くらいの集まりで能町和子ちゃんが出席しました。(その時てっちゃんは欠席だったと思う)とても残念がってましたよ。私とカコちゃん、清君もいたかな?てっちゃん家のお母様にお会いし、カコちゃんも懐かしがっていました。
    ●この会ももう何年になるでしょう?当初てっちゃん、阿部君、りっちゃん達が数人で会っていることを知り、懐かしく無性にてっちゃんに会いたくなり、りっちゃんのお力で会う機会を得、年々人数も増えました。(名簿上、現在39名、昨年出席23名)毎年開催する中でてっちゃんの存在が大きくなりました。皆んなも同じだと思う。気を使ってか率先して独特な歌を歌ってくれ、皆んなを驚かせ楽しませてくれました。幹事だった私にも労いの言葉をかけて下さった時は「分かって下さってるんだな」とありがたく思ったことがありました。感謝でした!!
    最初にてっちゃんが提案して始まった近況報告、続けてやってます。
    ●村上晴美ちゃん(旧姓山本さん)の嫁ぎ先高崎の東禅寺におじゃましましたが楽しかったですね。廃電車の車両の中で食事!忘れてますか?、てっちゃんのマイカー(ステッカーでいっぱい)の乗せてもらい、途中、行き交う車や人がマイカーを注視する様子を見て笑ってましたよね。楽しい小旅行でした。その節は奥様には飲み物を出していただきありがとうございました。                                       2020.6.28(日)記

  71. てっちゃん、伊東澄世(旧姓石井)ちゃんからのメッセージです。

    『てっちゃん強いです。誇りです。また、東小学校で会いましょう』 石井すみよ

  72. 先生の生き方はとても不思議でした。私の71年間の経験で、先生のように自由に生きている方は初めてでした。自由奔放のように生きていながら、素晴らしい奥様と娘さんに囲まれているのですから、きっと器用な方なのでしょう。先生の発想はいつも私の想像を超えていました。あれから、私の発想も少しですが広がったような気がします。無理せず自分にできることに集中して、やりたいことを抑え込まず、私なりに生きていきます。先生にお会いできて、ラッキーでした。ありがとうございました。奥様の力強い生き方も私の目標です。奥様にお伝え願います。

  73.  「どこで出会い、何をした」は語りやすいのですが「私をどう理解したか」は難しい問いですね。私から見た前澤先生は、理解できっこないくらい面白い、常識に囚われない、一生自由な変人で、大恩人です。私は今も昔も良識のある変人が大好きなので、もちろん誉め言葉です。

     十数年前はじめて大学の講義をとった時、どの授業でも、誰よりもその授業内容を「面白い」と心から楽しんで紹介している純粋さ、屈託のなさが印象的でした。好きなことについて面白がって話す前澤先生の目はとてもきらきらとしています。私は当時自分の動機の在りかが分からなかった(要は自分でも何がしたいのか分からない典型的な学生だった)のですが、小さい子どもがそうであるように、きらきらした目をした大人に惹かれて次々と先生の課外活動に参加しました。
     大学マスコットキャラのPVを作ったり、地域の「何これ?」を取材して映像化・紹介したり、やまなし映画祭のスタッフとして活動に参加したり…。自分の内にある好奇心を、社会との関わりの中で外での成果物に昇華していく、そんな先生のスタイルが好きでした。そしてあの2011年、そんな先生の活動に参加していなければ、私の人生は大きく違っていたと思います。

     私が製作した「きょうを守る」という震災ドキュメンタリーは、前澤先生がきっかけを作り、機材も編集PCも交通手段も用意し、発表の場を与えてくださり、その後の広がりも全面的に支えてくださった、そんな作品です。先生は決して自分からそんな風に言うことはありませんが、でも間違いなく、前澤先生がいなければ存在しない作品でした。
     あの作品に関して思い返せば色々なことが浮かぶのですが、崔洋一監督を紹介してくださったことが事の始まりでした。前澤先生はずっとそうなのですが、すごい人だけど偉ぶらない。貴重な人脈を何の惜しみもなく「友人だから」と学生たちに紹介し、対話の時間を設けて下さいました。私にとってはあの時間が大きなきっかけでした。

     その後、報道の影響で事が大きくなり始めると、前澤先生はちっぽけな一学生である私を真っ先に守って下さいました。当時はその有り難みを完全には理解できていなかったのですが、先生は報道陣や外部上映の担当者との間に立ち、同行取材の記者さんと取り決めを作り、外部上映のガイドラインを整え、上映回数や参加人数がわかる資料を独自にまとめ…。挙げればキリがありません。まるで敏腕マネージャーです。
     そこまでしてくださったのに、初公開のやまなし映画祭本番、上映1時間前まで作品が出来上がらなかった時は本当にヒヤヒヤさせたと思います。試写もできずぶっつけ本番…今更ですがあらためて、あの時はごめんなさい。思えば私、大学のレポートもギリギリのギリギリで出すほうでした。
     何はともあれ、当時故郷が被災してボロボロの精神状態だった19歳の私を、傍で守ってくれる大人がいたのは本当に救いでした。そうでなければ、私はプレッシャーやストレスに押し潰されて、全くの別人になっていたかもしれません。今の私があるのは前澤先生のお陰です。

     それから実際の撮影の際、甲府から陸前高田まで片道7、8時間、前澤先生ご自身がハンドルを握ってあの「交通安全車」で送迎してくださったこと決して忘れません。海の日の祝日を利用して行ったので、もう少しであの撮影からも丸9年。陸前高田はあれから少し変わりました。
     私の両親もあの頃の仮設住宅ではなく、再建した新しい実家に住んでいます。実家の2階は仕切りのない広いスペースにしてもらったので、いつか小さなお芝居や何かのワークスペースに使おうと思っています。修学旅行の民泊受け入れなんかもやっていて、先生にも一度泊まってほしいなあ、なんて今思っています。奇跡がおきたら、ぜひ。今私の一番の願い事です。

     いつもの声の調子でこの度の電話が来たときは本当に驚いたし、悲しく思いましたが「私が読めるうちに言葉を下さい」なんて普通の人は頼まない頼みごと。不謹慎かもしれませんが、前澤先生らしいなあとちょっと心くすぐられてしまいました。何文字でもいいので、とも仰っていたので、すごく久しぶりの小レポートくらいの気持ちで書きました。長過ぎましたらすみません。

     前澤先生は私にとって恩師であり、親戚のおじちゃんのような、ちかしさも感じます。浮かぶのは感謝の言葉ばかりです。
     「いい人脈は不思議な見えない力でどんどん繋がっていくんだよねえ」と、かつて前澤先生が言っていましたが、学生時代その一番最初の縁を私にくださったのは前澤先生でした。本当にありがとうございます。ずっとずっと、社会に出た今も感謝し続けています。
     このご縁とご恩、忘れません。

  74.  新型コロナウイルス禍による自粛生活で思わぬ時間ができ、録画や撮影した映像の整理に取り掛かかっている。そのうち見ようと40年近くたまり、まずメディアの変遷を遡ることから始めなければならない。8mmフィルムからβ、VHS、8mmビデオ、DVテープ、そしてLD、DVDからブルーレイまで・・・凄いことになっている。HDDへの取りこみは、やっと、β、VHSまでが終わりそうだ。いつになったら、コンテンツを楽しめるのだろうか。我ながら、あまりゆたかとは思えない。
     そこへ行くと、前澤さんは違っている。コンテンツを楽しむことや体験することに時間を使うことを重要視している。それに合わせた仕事やライフスタイルを実践している。やり残したことも悔いもないという生き方は、私にとって気になる存在で、大切な友人です。

     思えば、「ミロシティ映像情報都市研究会」で知り会い25年来の交流になる。1997年に開催したシンポで、「超産業 シアトリカル都市構想」として「人が中心ではなく、効率や生産性だけを追求し、環境を破壊する産業でいいのか」と投げかけた課題は今も変わらない。
     当時、羽田の空港跡地の再開発について議論しましたね。幾度となく蒲田に集まり議論しワインを楽しんだことは良い思い出です。
    ファイルに前澤さんのアイデアシートが残っていました。「24Hディスコ大駐車場付き、24H学習塾合宿制」、「世界一長い子供用ゴーカートコース」、「24H型大コンビにセンター・大OUTLET、ウイークリーマンション街」の3枚。200haあった跡地の大半は国際空港のために使われ、大田区に残った17haほどの土地の再開発が今月竣工します。建設・不動産屋の事業コンペで、一部はライブホールや中期滞在施設など前澤案に似た施設もあります。しかし、事業利益の尺度だけを優先する再開発がどんな意味があるのだろうか。コロナ禍をその警鐘としたいところです。

     同じ時代の中で、体勢のしがらみの中にいる私と違い、前澤さんはSONYを出て自己の生き方としてマイノリティーを主張し発信してきました。教育を通じて、たくさんの種を撒いてきたことも素晴らしい。いずれ一緒に旅行や体験を楽しめたらと思っていましたが、難しくなったようですね。前澤流の生き方は、いつでも取り出せるように私のポケットに入れておきます。
     少し遠くに旅に出る前澤さんに、さよならは言いません。素敵な旅になることを心より願っています。時には、お便りをお待ちしています。

  75. 前澤さんの言葉には力があります。
    瞬時に、旧い殻に亀裂が入ります。
    その都度、斬新な風がもたらされました。

    前澤さん自身の脱皮人生の話にわくわくしました。
    人はこれだけ成長し続けられる勇気と希望が湧いてきます。
    前澤さんにいつも促していただいたのは、
    脱皮して新しい世界に飛び込むことです。

    前澤さんからいただいた、最高のプレゼントがあります。
    日本初のフィルムコミッションを生み出した知恵を、
    「一新塾の教科書に!」ということで、
    執筆いただいた原稿です。

    私は、何百回、読み返したでしょうか。
    その都度、幾度となく
    ハッとさせられました。
    “詰将棋“に“オセロゲーム”。
    市民の顔と専門家の顔。
    研ぎ澄まされた戦略が貫かれている。
    小さなモデルを生み出し、
    綿密に準備されたステップで、
    あっという間に全国に広げていく。

    前澤さんの生き様、哲学、人付き合いの術まで、
    この教科書に、すべてが入っています。
    「プロデューサーを育成したい」と語っていた前澤さん。
    まさに、フィルムコミッションの実践で、
    プロデューサーのモデルを示してくれました。
    多くの塾生が志を生きる挑戦を後押しいただきました。

    前澤さん、最高のプレゼントを本当にありがとうございます。

    一新塾 森嶋伸夫

  76. 前澤哲爾さま

    ご無沙汰しています。大木一史さんから「前澤さんのHPに何かメッセージを」との伝言メールを頂きました。もう20年以上お会いしていないと思いますが、大病を罹患されたとのこと言葉を失いました。ただ前向きに人生を総括されているHPを読み頭が下がりました。そこで前澤さんがソニーPCL時代に担当され、私がソニー時代に制作したビデオソフトについて書くことにします。

    1984年アンビエント・ミュージックのブライアン・イーノさんの東京でのビデオ・インスタレーションを前澤さんが担当された時のことです。前澤さんにイーノさんへのご紹介をお願いしたら快く打ち合わせをセットしてくれました。

    イーノさんにソニーから発売するオリジナルの市販ソフトをアート作品として制作して欲しいとお願いしたら、彼は「自分の作品は横型のビデオを縦に設置して鑑賞するので、おそらくソニーは許可しないだろう。が、もし企画が通ったら許可された予算の中で制作しよう」と言ってくれました。そこで会社に提案し、いろいろ紆余曲折があったのですが、なんとか企画が通りイーノさんに連絡しました。

    サンフランシスコで落ち合おうということなり、東京から放送用ビデオカメラを持参して2週間イーノさんの希望に沿って撮影を進め、その後、前澤さんが担当していたソニーPCLで編集仕上げをして完成したのが “Thursday Afternoon by Brian Eno” です。

    イーノさんが制作を受けてくれたのは、前澤さんのおかげです。お二人が単に仕事としてだけではなく、個人的にも信頼関係を築いていたから私のことも信頼してくれたのだと思います。お二人が熱心に「漢字」の意味について話しこんでいたのを思い出します。イーノさんはそのおしゃべりから自分の名前の印鑑を作っていましたね。

    そんな40年も前のことを思い出しナイーブな気持ちになりました。誰もが「明日は我が身」なのですがまだ身辺整理をしていません。前澤さんがずうっと会っていなかった私を思い出してくれたことに感謝しつつ1日1日を大切に過ごしたいと思います。本当にいろいろありがとう。

  77. 前澤さんとは、大分前になりますが近藤さんのstudy99の勉強会でお会いしましました。仕事の分野が違いことがかえって新鮮でした。おだやかながら熱く語られる姿を覚えています。
    多くのことを学ばせていただきました。実際に思いを実現するよう動くこと、言うだけではなく行動で示していくことの大切さを勉強会で感じとると共に、前澤さんの生き方でそれは真実だと感じとりました。
    まずは自分の仕事にいかせればと考えてきました。考えるだけではなく行動しなくては。自分に言い聞かせます。
    ご指導ありがとうございます。

  78. 前澤さんの体調をFBで知り、どう対応しようかと考えていたら、本人から電話でお別れメッセージの催促が来た。如何にも前澤さんらしい。前半は前澤さんとの出会いから、FC設立時の裏話をご案内します。

    当時、前澤さんの会社を何度も利用していたが、知り合ったのは以外と遅く全国フィルムコミッションの設立準備会に乱入したことから始まる。映画「白痴」を作るさいに、映画が地域発信の好材料になると考え、新潟市役所との協調を模索した。ところが金をむしり取られると警戒されたのか、長谷川元市長との面談すら叶わなかった。一方で市民や県や市の職員は個人レベルでとても好意的に対応してくれ、撮影開始前には2000人のボランティア名簿が1週間で出来るほど盛り上がった。そこで、地域一体の映画制作現場を行政担当者に観て貰おうと、全国の都府知事宛に視察受け入れの案内状を送付した。だが、完全に失敗に終わる。ただ、海外ロケで公的機関の効率的な対応に助けられていたので、特に低予算が大半である日本の映画・映像製作現場では、制作部の負荷軽減が不可避だとの考えは変わらなかった。

    そんなある日、朝日新聞でFC設立の動きを知る。経産省に電話して何処がやっているか教えて貰った。そこで前澤さんと会うことになるのだが、最初の私の印象は「ナンダ・コイツ?」だったと思う。能力は大いに疑問だったろうが、映画やTVドラマの現場を熟知しているということで、前澤さんの計らいでフリーのプロデューサーとして委員会に参加するようになる。会に参加するなり、私は○○製作者連盟などは何の役にも立たないから早期に声掛けすると士気が下がると否定的な意見を述べた。だが、さすがに舞台が文部省から国交省に遷るときは避けられなくなった。ところが製作者連盟は予想通りの反応を見せ、「年会費10万円の負担は大きいので、会員にはからなければならない・・・」とかなり否定的な良い方をした。周りは“ここは古澤の出番だぞ!”と熱い視線を注ぐ。仕方なく挙手し「ここに集われる有志は大半が業界とは関係無い人達です。映画・映像産業のことを思ってボランティアで活動されているのに、今の発言はとても映像を生業とされている団体の方のお言葉とは思えません」と喰ってかかった。それは和をもって貴しとする霞ヶ関の風潮とは真反対で一瞬現場が凍り付く。会の終了後、前澤さんらが寄ってきてよくぞ言ってくれたと暖かく迎えてくれた。「フリーは失うものが無いですからね・・・」と笑って応えた。

    その後、意欲的な委員らの働きもあって、横浜パシフィコで「全国フィルムコミッション」立ち上がることになる。前澤さんから当日のメインスピーカーの選考を相談され、この動きを個人的に話していた菅原文太さんが適任だと考え交渉する。しかし、当人から先約が変更出来ず直接侘びの連絡が入る。再選が必要となり映画のよき時代を知って監督経験もある山城新伍氏を推した。前澤さんと二人で事務所を訪問し快諾を得た。準備万端整えた当日、山城さんは上機嫌で会場入り。しかし、これがあだとなることはその時前澤さんも私も思ってもみなかった。山城さんが登壇しひとしきり話すと、場を和ませようというサービス精神から十八番のチョメチョメ談を始めたのである。私は会が終わるなり前澤さんに両手を合わせ詫びた。前澤さんとは大事に至らなかった安堵感を分かち合った・・・

    後半は“FCその後”に続きます。

  79. 陽子さんからメールで哲爾さんの病状の知らせを受け、あまり突然のことで非常に驚いております。思い起こせば最後にお会いしたのは、平成20年8月17日の通子さんの49日の法要のときだったと思います。それ以来、12年ほど会っておりませんでしたが、年1回の年賀状によれば、肝機能の低下のため禁酒したこと、糖尿病は専門医の指導の下で血糖値が大幅に改善したこと、骨髄性白血病も寛解したことが書かれており、相変わらず、以前のように元気に世界中を飛び回っているとのことで、まさか、肝臓がんに侵されているとは思ってもいないことでしたので、今はどんな言葉をかけてよいのか思いつきません。
    さて、哲爾さんの結婚式が思い出されます。通子さんが前橋市立桃井小学校の先生をしていた時の教え子でNHKのアナウンサーをしていた生方恵一さんが司会者でしたね。生方さんは早稲田出身で、哲爾さんご夫妻は慶應出身でしたので、早慶戦を思い出すというようなことを生方さんは自己紹介で言っておられました。(余談ですが、哲爾さんはそのころは、まだソニー関連の会社に勤務していて、媒酌人はそこの社長さんでしたね。)その生方さんも数年前肺炎で他界され、遠い昔のことになってしまいました。
    私から見た哲爾さんですが、通子さんは古いしきたりを重んじる人でしたから長男の研爾さんを重用し、私が舘林の家へ立ち寄った時には、研爾さんに康夫さんが来てくれたといつも報告していたようでした。修爾さんは通子さんの晩年、毎週茅野市から舘林へ来て通子さんの面倒を見ていたので、恩義を感じていたようです。哲爾さんの話では映画や映画監督の話をすることが多かったです。そして、哲爾さんは良い意味で何の制約も受けず一番自由にさせていただき、兄弟の中で一番人生を楽しまれたのではないかと私は思っております。
    ただ、現在の平均寿命からすれば、まだ10年以上は生きるものと思っておりましたので、それがとても残念です。
    宮寺康夫

  80. 前澤先生
    山梨県立大学一期生前澤ゼミ所属の武川です。

    私はまず先生にお詫びしなければなりません。
    先生がこのサイトを立ち上げられた時、私は非常に悲しく、心が穏やかではいられませんでした。
    今でもこの画面に向かうとクラクラと目の前が歪みます。

    先生は私にとって恩師で、大先輩で、目標で、私に人生をくれた人です。
    先生との出会いがなければ今の私はいません。
    そんな先生がこんなに早く逝ってしまう。まだ足元にも届いていないのに。

    先生に「立派な大人になりました!」と自信を持ってお会いできるようになるまで、
    そんな自分を見ていただけるまでは、恥ずかしくて連絡もできないと思っていました。
    東京で仕事を辞めてから、ずっと自責の念が拭えないでおりました。
    それでも自分なりに頑張って、少しづつ、胸を張れるようになってきました。

    それでも今まで、このサイトに書き込みもできず、悲しい現実からも背を背けていました。
    本当に申し訳ありませんでした。本当に恩知らずな弟子で申し訳ありません。

    信じたくないのです。未熟な私は先生の死に向かう姿を受け入れる準備ができません。

    ここ数日、大学の同期、先生にお世話になった方々から連絡をもらいました。
    私は今でも現実を直視できません。それでも、何か伝えなければと、言葉を叩き出しています。
    辛いです。苦しいです。まだ死んで欲しくないのです。
    まだまだこれから伝えようとしていたこと、教えていただきたいこと、
    いっぱいいっぱいあるのです。

    早すぎるじゃないですか、

    気持ちが今もまだ落ち着きませんが、このままでは一生後悔を背負うと思い、ここにメッセージを残させていただきました。
    これが先生への別れの言葉になるのが本当に辛いです。実感に代わるのが耐えられないのです。

    本当にありがとうございました。

  81. 前澤さんへ
    たくさんいる一新塾生の1人なので、覚えていただけていないと思いますが、私はFCのことを学び、カンボジアで(自分では行けなかったのですが)同僚にFCに行ってもらい、キリロムで撮影ができないかという事前交渉の挨拶ができてとてもうれしく思いました。その時の仲間はその時の映画祭に呼ばれたりで、とても喜んでいました。
    今、「大人が変わらないと、子ども・若者の未来を小さくしてしまう」という思いが強く、なんとか、今の日本人の大人が自分の思いの方向に、そして、自分の子ども・生徒の足を引っ張らない大人になるためになにかできないか、と思い、日夜悶々としています。
    ちょうど1周り(干支は兎ですよね?)違う前澤さんの行動を時々垣間見ることで勇気をいただいていました。そして、今回も、再発と余命宣言を聞き、驚きながら、すごいなあ、と思っている次第です。
    ご自身の言から「あと数週間」とありましたが、その期間を、前澤さんはいろんなことを思い返しながらも、精いっぱい、思い残すことなく過ごされるのだと思います。
    奥様からいただいた「うりんずの雨」は現在95歳の義母と一緒に見たり、中高の平和教育の教材に利用させていただいています。
    facebookで、今後の前澤さんの行動を見て、自分に取り入れられるものは使わせていただきます!
    それでは、これからもよろしくお願いいたします。

  82. 終息宣言、承りました。
    羨ましいです!
    最初の大学で、同じ教室で
    わたしだけ、卑怯にも学部に上がり
    6年かかって卒業しました。
    貴方には、いっぱい
    いろんな事を教えて貰いました。
    目の覚めるような風景を
    見せて貰いました。
    ありがとうございました。
    また、向こうで、共闘しましょう!

  83. 一新塾37/39期の高嶋です。
    数週間前に前澤先生のことを思い出していました。映画って力あるな。映画をつくるとしたらどうしたらいいだろう。ああ、前澤先生に伺えばいいと。
    もう直接伺うことは叶いませんが、先生の遺した足跡から辿ってみます。
    先生の生き方に学んでいる途上です。感謝しています。

  84. 一昨年、一新塾でご縁をいただきました。
    先生が何をお話しされたのか、どういうメッセージだったのか、最後に色紙に書かれた言葉、何ひとつ明確に覚えておりません。ぼんやり覚えているのは、講義の後の懇親会で「何?ビールでいいの?」とお声かけいただいたことです。
    本日、一新塾のメーリングリストにて、森嶋さんから前澤さんの現在そして本サイトについての情報を共有してくださいました。目で辛うじて見えるか見えないかの私と前澤さんのご縁の糸が、キラッと光りその糸の輪郭を感じました。
    それがとても美しいものに私は見えて、自分勝手ながら御礼の言葉をお伝えしたく、コメントさせていただきました。
    前澤さん、ありがとうございます。

  85. 前澤さん、突然の電話でびっくりしました。ゆっくりした時間に前澤さんとの出会いを振り返ってみました。99年のフィルムコミッションを立ち上げるころだったような気がします。それから20年あまりたちますが、月日の経つのはアッというまの早さです。この20年の間には、様々なことがありました。前澤さんのこのペ-シの立ち上げによりおかげで、この20年をゆっくり振り返ることができました。頑張ったのですね。私の方は、2011年の2月に脳内出血で倒れ、そのまま病院に運ばれ、意識無しが2週間ぐらい続き、やっと意識が回復したのが3週間目からでした。それからリハビリの毎日で5月まで入院しました。それから10年立ちますが、今は何ともかく過ごしております。これも、もう少し世の中のためになることをしなさいということかもしれません。前澤さんも、前向きに考えて死とはどんなものか、いろいろ考えてください。今は、いい出会いができ幸せに思っています。

  86. 吉田明子(旧姓尾﨑)より下記のメッセージです。

    前澤哲爾様
    吉田明子(旧姓尾﨑明子)と申します。覚えていますか?
    私の家はぴ〜ぷるの東側の駐車場あたりにありました。
    昨年はじめて同窓会に(幼なじみの会)参加しました。
    その時は残念ながらお会い出来ませんでしたね。
    是非お会いしたいので。 てっちゃん come back!!

  87. 一新塾で6年間お世話になりました水戸市の萩谷慎一です。
    私も、前澤さんのお蔭で人生を大きく変えることができた者の一人です。
    さえない市役所職員であった自分も、今では市議会議員へと転身させていただいております。
    自分の「魂」の望んでいることに正直に向き合って、常に「脱皮」し続けることが、人生の醍醐味と悟らせていただきました。

    人生は常に死と隣り合わせです。
    限りある人生を何のために燃焼させるかに、常に向き合ってきた前澤さんの生き様は、これからも私たちの心に生き続けてまいります。

    私は「魂」は、永遠のものと考えています。
    愛する現世の人々との別れは、さぞかし辛く悲しいこととお察しします。
    しかしながら、肉体から解き放たれた「魂」は、これからも希望に満ちた永遠の旅を続けていくと信じております。

    これまでのご恩に深く感謝申し上げますとともに、
    これからの前澤さんの未知なる冒険に、
    心からエールをお送りいたします。

  88. 事務局の森嶋様からのメッセージを拝見しメールいたします
    私は一新塾2期生で、塾のアフターだったか、前澤さんの講義だったのか、あるいは数年後の会であったかはっきりはしませんが、フィルムコミッションに情熱を燃やされているお話を興味深くお聞きしました。ソニー関係の会社におつとめだったかと記憶しております。
    その時には、フィルムコミッションということばをはじめて耳にいたしましたが、その後最近に至るまで、各地で行われるロケなどフィルムコミッションの言葉を何度も聞くたびに、前澤さんのあのときのあれだなと思いだしていました。
    今回、HPを拝見し世界を大冒険されていることを知りました。
    コロナで海外渡航が今後どうなるのかわかりませんが、ぜひ大冒険の続きができますようお祈り申し上げます。
    私も昨年還暦を迎え36年間の仕事を退職しましたが、一新塾を通じて学んだこと、皆様とのご縁がかけがえのないものであると感謝いたしております。1期のかたも2期のかたもみな若く熱かった。

  89. 一新塾25期生の島崎です。コミュニティーキッチンで、笹淵さんと一緒に発表をさせて頂きました。活動は既に終了していますが、今でも笹淵さんとはやり取りをしています。一新塾は、私が議員になる志を持って勉強するために入りましたが、当時心の中で何か「腑に落ちない」ものがあり、いろいろと考えた末、色々な方にご迷惑を掛けながら出馬を断念し今に至ります。私も気が付けば59歳になり、やり残したことを考えてみると、どこかに国会議員になってこの国のために仕事がしたいという気持ちが残っていることに気づき、もう一度チャレンジしてみようと思っています。自分の気持ちに正直になろうと思っています。そのきっかけになったのは、2年前に父が突然亡くなったことです。いつか人は死ぬ。それも突然死ぬことがあることが私にとってとても衝撃で、忍耐や我慢ということよりも、やりたいことをやることが人生の価値だと思いました。そのため、将来への貯えということよりも、今の自分にとって心を満たすことをしようと、昔から気に掛かっていたポルシェを購入し、毎日ワクワクしながら運転しています。スポーツカーを運転できる年齢は、もうそんなに長くないのですから、後悔しないように生きたい、そんな風に思っています。自分の人生を振り返ってみると、大した人生ではないのですよね、もっと、もっと高みに行きたい!そんな野心にも正直になりたいと思っています。神様に頂いた命ですから、それでも感謝しつつ、毎日を元気に生きたいと思っています。先生に一新塾でお会いできたこと、感謝です。命は終わりがあるにしても、それまでの間、先生は多くの、そう、とっても多くの人に影響を与えてきたことでしょう。私もその一人です。覚えているかどうかわかりませんが、一新塾を卒業してから、猫のコーヒーカップをプレゼントで贈らせて頂きました。先生からは返事はなかったかと記憶していますが、私にとっての思い出の一つです。もしもまだお手元にあるようでしたら、是非、旅立ちのお供にしてください。(笑)寂しいとか、悲しいとかはきっと先生には似合わないでしょう。私もそんなことは書きたくありません。是非、この世に満足をして旅立って下さい。私たちもいずれ旅立ちます。最後に、ありがとうございました!こんな駄文を読むのも疲れたでしょう(笑)。最高の人生に!!

  90. 6期卒塾生の金澤と申します。
    一新塾では、今で言う多様性を体感させていただきました。

    個人的な事となりますが…先月末に、父を膵臓癌で亡くしました。
    コロナで実家に行く機会を逸し、駆けつけた時は既に危篤状態でした。
    翌早朝に亡くなったのですが、「自分はどう寄り添うべきだったのか」、暫く苦しみました。

    しかし…コロナ渦に関わらず、弔事に駆けつけて下さった方々の多さに、父の人徳を感じ、人生を前見て歩くように背中を押されました。

    これまでも、これからも、仲間の心の中で、影響を与え続け、常に目線をアップするメンタリングをしていただけます事を祈念致します。

  91. 前澤哲爾さま

    こんにちは。一新塾の塾生として、2018年に先生の講義を受けました。
    講義の後、一新塾のあるビルの裏側の中華料理屋さんで、先生を囲み親睦会をさせて頂きました。

    映画の話に始まり、ソニー時代のお話など、講義では聞けないプライベートなことも聞かせて頂きました。

    何をお話したのかは、正直覚えておりません。
    でも私がやりたいと願っていることについて、
    少しお話させていただいたのかもしれません。

    先生が私のつたない話を聞いて、名刺を交換してくれ、交わした言葉のなかで
    何かとてもパワーを頂いたのを、はっきりと覚えております。

    そう、先生はとってもパワフルで、周りにもそのエネルギーを降り注ぐ方でした。

    その時に感じた思いを、忘れないでいようと思います。

    あの時にお会いできて、本当に良かった。
    私には忘れることのできない時間となりました。

  92. 池田政子です。お電話、感謝します。私の短大・大学教員としての人生の中で、一番大変だったのが、2005年に山梨県立女子短大と県立看護大学が統合して四年制共学の山梨県立大学ができた時、「地域研究交流センター」という”地域貢献”のためのセンターを、組織づくりを含めてゼロから立ち上げなければならなくなったことでした。先生は知らなかったでしょうけど、軌道に乗る半年くらいの間は、夜もよく眠れず、7キロも痩せちゃったんですよ(^^;;
    中心となって担っていただくべき方々を、一本釣り(?)で“口説く”ところから始めたのですが、今日のお電話では、なんじゃそりゃ?…とは思ったけど、ちょっと気になって、また、自分に声をかけたのは「見る目があるな」と思って、OKしてくださったとのこと。誠にありがとうございました。
    「地域に開かれ、地域と向き合う大学」を掲げてのセンターの出発でしたが、女子短大と看護大学、二つの歩んだ経緯の異なる組織が再編されての3つの学部に、さらに新しく採用された教員(前澤先生もそのお一人)が加わっての新大学でしたので、授業と研究以外のことを自分の仕事ととらえる教員が多いとは、必ずしも言えませんでした。
     そういう中で、前澤先生には「生涯学習部門」の部門長をお願いしたのですが、先生は、ご自分のキャリアや豊富な人脈を活かして、学部の枠を超えて大学の資源を地域に提供する講座や事業について、アイディアをどんどん出してくださり、またそれをご自分が中心となって実行してくださいました。
     たとえば、センター2年目に「地域プロデューサー養成講座」という、半年間にわたり10回というワークショップ中心の連続講座、しかもグループ研究を並行して行い最後に発表し、記者会見までしちゃう!というような講座をしてくださいましたよね。まあ、その講座の価値を受け取ってもらえると信じ(そういえば、この講座は参加費5000円をいただいています)、ずっと受講生の方々に付き合うという覚悟がなければできない講座で、当時、大学がそういう講座を実践するというのは全国的にも珍しかったと思います。(私自身は同じような形の連続講座を長年他の教員と共に行ってきたので、そういう企画にまったく異議はありませんでした。すみません、これはちょっと、学びの場として地域の方々のエンパワメントを図るという大学開放を理念としてきた、山梨県立女子短大の自慢でもあります)
    「地域プロデューサー」というネーミングも先生ならではのもので、企画の趣旨と目的を次のように書いておられますね。
    (ファイル添付ができればいいのですが、できなさそうなので、書いちゃいます)
    「中央集権から地域主権の時代に移行すべきだという議論が盛んに行われている。しかし、この急速な変化に地域が対応できていくかと言えば、多くの課題が残されたままである。地域主権が成立するためには、地域自身でリーダーシップを発揮していかなければならない。
     山梨県立大学では、開学と同時に地域研究交流センターを設置し、地域に開かれた大学を目指し、様々な取り組みを行っているが、大学といえども、すべての課題に取り組めるわけではない。
     地域にとって最も必要とされているのは、誰かから頼まれたわけでもなく、自発的に自律的に創造的に地域のために活動できる人材だ。領域は異なっていても、同じ高い志を持って、地域を牽引する多くの才能を輩出することがこの講座の目的である。」
     うーーん、今コロナ状況の下で、まさに「そうだよな」と実感できます。
     また同じ年の「大学と地域との協働プロジェクトを探る」という講座について、
    「今、大学が変わろうとしている。大学は、研究者が専門分野を研究してきたアカデミズムの砦から、学生に対する高等教育内容の充実、地域発展への知的貢献など、新たな使命が強く求められるようになり、とりわけ、公立大学にとっては、地域課題の解決を目指す役割が益々大きくなってきた。山梨県立大学は、2年前に開学し、多くの点でまだ模索状態にあり、そうした中で、大学が地域の団体・個人とどのように活動していくべきかについて、その具体的指針を打ち出していくための一つの試みとして、この講座を企画した。」
    と、書かれていますね。
     公立大学はもちろん地域の人々の援助を必要とし、育ててもらっているけれど、地域の人々はその大学を必要としているのか? 大学が勝手に(?)提供する”地域貢献”なんておこがましい・・・あらためて、そういう視点の重要性を確認させられます。
     センターの委員会で意見がぶつかったこともありましたけど、先生が率先して実践してくださったおかげで、他の教員も、こういうことができるんだ、こういうことをしていいんだと、センターの活動内容が広がっていったと思います。
     いろいろな方々のおかげで、センターの”基礎工事”をすることができましたが、新しい発想をいただき、また楽しげに実践してくださったこと、感謝しています。
     長い文章になって、読むのもお疲れですよね。ごめんなさい。また書かせていただくかもしれません。 

  93. 一新塾32期で、先生の講義を数回拝聴しました。
    当時まだ大学院生で社会経験もないまま政治や地域の社会活動に興味を持ち、一新塾に入ってみたものの、講師の先生方の中には考え方の合わない方もいました。そんな中で、前澤先生の懐の広さ、そして奥深さに触れることができて、私は一新塾を続ける決心をしました。先生の話を聞かなければ、きっと途中で投げ出していたと思います。
    卒塾後、縁あって大学教員として「普通に」働いていますが、私も誰かにとって先生のような存在になれたらと思いながら、日々に追われながらも野心を抱いています。
    これからも見守っていてください。ありがとうございました。

  94. 2011年に一新塾名古屋地域科に入塾し、前澤先生の講義を受講しました。フィルムコミッション設立を成功に導いた先生の手法は、森嶋さんの講義でも学びました。まさに今、その手法を用いて、一見クリーンなイメージの再生可能エネルギー事業による大規模な自然破壊と、地域住民の健康被害を広く訴えるためのネットワークを構築できないか、と考えております。私は大学卒業時に、自分は日本の社会常識にはなじめない、就職もしないと決め、マイノリティ、というか社会と距離を置く形で生きてきました。しかし、人とつながらなければ、できない事もあります。その一歩を踏み出す方法を考えた時、最初に頭に浮かんだのが、前澤先生のお話でした。簡単ではありませんが、やってみます。成功事例を見せて頂いてありがとうございました。心から感謝いたします。(きわみ)

  95. 41期の佐藤と申します。栃木で過疎化高齢化対策として、移動販売と生活支援を展開しています。 

    先生からは一新塾の中で多くの学び、気づきを頂戴しました。
    フイルムコミッションの立ち上げの話では地方のポテンシャル、そしてその引き出し方について数多く学ばせていただきました。

    また特に41期の卒塾発表では他の方への
    厳しいコメントを通じ、私は箸にも棒にもかからないくらい低レベルだな、他の方のあんな素晴らしい発表でも酷評されるなら、私は相当工夫しないと話にならないなと悟りました。

    それから二年弱、この学び・気づきから悪戦苦闘してきました。自治体、自治会、関連団体の巻き込み、顧客の開拓、移動販売とそれに付随する形での低コストな生活支援、野菜販売のビジネスモデルなどをいろいろと工夫し、少しずつなんとか形になりつつあります。

    本当にありがとうございます。

    ご指導いただいた理念・内容は、栃木県の一地方でもずっと生かしてまいります。

  96. こんばんは。
    一新塾の講義や入塾、卒塾で大変お世話になりました。
    先生のコメントはいつも他とはひと味違い、私の人生経験をまた違ったものにする気づきをいただくことができました。
    人とは違う行動や言動をして、自分らしい生き方をしつつ、かつ周りからも愛される、そんな生き方をいつか私もマスターしたいと思います(^^)
    死は時に怖いものです。自分が無になるのかとか、地獄に堕ちてしまうのか、とか。
    でも、時に大切で、特に残された時間が分かれば事前に準備することもできますね。
    私の人生もきっとあっという間なのだと思います。
    残りの人生を大切に、出来る限りやり尽くしたいと思います!
    ありがとうございました。
    あと最後に、ロバおじさんの発想面白かったです。

  97. 前澤さん
    一新塾41期でお世話になりました稲葉章浩と申します。
    突然のお知らせに驚いております。私も昨年より前立腺ガンの治療を続けており、幸いにも術後の経過は良好です。
    前澤さんが講義にて話して頂いたフィルムコミッションでの地域や関係者の巻き込み方はとてもためになりました。また歯に絹着せないコメントの数々を楽しく聴かせて頂きました。自分の意見をハッキリと伝える姿勢を学ばせて頂きました。ありがとうございました。
    このように感謝の気持ちを伝える機会を作って頂きありがとうございました。

  98. 一新塾の講義でお話をお聞きした時フイルムコミッションのプロジェクトやる前に毎日新宿に人を呼んで飲まれてたと言われてたのを覚えてます。
    そういう荒技もあるのかと思いました。
    その直後白血病になってしまったと一新塾のメールで知りました。
    そのやり方をここ3年間くらい参考にさせてもらうような状態に偶然なった人間です。
    講義は遠くから見ていたので誰かわからないと思いますがとても共感いたしました。
    ありがとうございます!

  99. 前澤哲爾様
    一新塾42期卒の高木一彦と申します。46期OBOGコンサルコースに申込み、またお会いできると思っておりましたが、森嶋さんから最期が近いとお聞きし、メッセージさせていただきます。
    講義でフィルムコミッションのお話を聞き、私自身も18年ほど前に地元の「かずさ青年会議所」のプロジェクトでフィルムコミッションについて調査し、立ち上げようとした時の事を思い出しました。プロジェクト自体は単年度で達成することは難しく、頓挫してしまいましたが、都内から1時間程で来れる立地条件と、豊かな自然環境に恵まれた地域であることを再認識し、可能性を大きく感じることができました。
    今、私の友人が「南房総フィルムロケッ人」という民間のフィルムコミッションを鋸南町で運営しており、私も地元のロケ地情報を提供したりしています。
    一新塾で学んだこと、前澤さんの生き様を胸に刻み、私自身もブレる事無く目標に向かって突き進んで行きたいと思っています。
    ありがとうございました!

  100. こんなにもたくさんの人の心に温かな爪痕を残すことができる前ちゃんの人生を幸せと呼ばずして、なにを幸せと呼ぶのかな? いつも前を向いて、正しいことを見つめて、忖度せずに生きるって、やっぱり誰もができることではないよね。そして、今もきっとみんなを驚かそうと、楽しまそうと、アイデアを巡らせているのでしょう? 不謹慎だけど、私はとても期待していますよ! だって前ちゃんだもの。いつの日か声が聞きたくなったら、あの記念のテレフォンカードを使って電話をするから、前ちゃんの声が聞こえてくる魔法をお願いね。抱えきれないほどのありがとうの花束を贈ります。

  101. 前澤先生

    大変ご無沙汰しております。
    山梨県立大学国際コミュニケーション学科2期生の竹内です。
    前澤先生のゼミで大変お世話になりました。
    わずかでも覚えていただけておりますでしょうか?

    先生へのメッセージ、何と書けば良いかずっと悩んでおりました。
    先日より、ゼミ当時に前澤先生とやり取りしていたメールを見返しておりました。

    当時、私は先生から多くのお叱りの言葉をいただいておりまして。。
    私の甘さ故の行動(ゼミ無断欠席や提出物のクオリティが低い、締め切りを守らない、などなど)で、大変申し訳ありませんでした。
    今メールを見ても、先生からの言葉は当時と同じ感覚で背筋が凍ります。笑
    このタイミングで恐縮ですが、謝らせてください。

    なんというか、メールを見返すと前澤先生の言葉がそこにあって、
    今でもそうですし、今後もずっと自分の中に残っている気がします。
    (見返すたびに、甘えた気持ちが一瞬で引き締まります。)

    普段は行動が出来なかったことも正当化してしまう私ですが、
    ほんの少しでも先生に成長した姿を伝えられるように、勇気を出して書いております。
    先生に、「一体何を躊躇しているのですか?最大限の努力をしてください」と言われる前に書かなきゃという気持ちもありますが。笑

    今回、先輩方から前澤先生の状況を聞いたのですが、
    本当に多くの方々が前澤先生にメッセージを届けようと考えておられます。
    言葉選びが変かもしれませんが、ここまで多くの方に想われる先生が、羨ましいと思いました。
    様々な方に思い出を語られ、想いを寄せられる先生の人柄や魅力は本当にすごいと思います。

    また、今回の先生へのメッセージの件で、長く連絡を取っていなかった先輩たちとも久しぶりに会話ができました。
    ありがとうございます。
    前澤先生は、当時もそうでしたが、ずっと人と人をつないでくださる方だったな、と改めて思い出しました。

    大学卒業後、金融→広告→マスコミ→気象と、ふらふらと様々な仕事についている自分に誇れるものはほぼ無いのですが、
    「世の中を幅広い視点から見て考えること」は、前澤先生を見ていてカッコいいなと私が感じていたところです。
    そういう意味では、ほんの少しでも自分の人生に取り入れられているのかな、と嬉しく感じています。

    今、当時想像もつかなかった混沌とした世界になっています。
    先生が今、そしてこれからの世界をどう見て考えているか、是非講演を聞きたかったです。
    綺麗な最後の言葉なんて見つかりませんが、一旦お礼の言葉で締めさせていただきます。
    前澤先生、本当にありがとうございました。

  102. 一新塾42期、OBOG44期で学ばせていただきました飯田久美子です。『逆転キャリアPJ』という若年層フリーター支援のプロジェクトを卒塾時に発表いたしました。前澤さんから「自分は今まで何してきたんだろうな~と考えさせられる、感動するプレゼンだった」というコメントをいただき、まるで親から自分の過去を褒めてもらえたかのような気持ちになり、今でもそのシーンをカラーで思い出せるほど胸にグっとくるお言葉をいただけたことを感謝しております。まだPJは完成していない段階にありますが(完成などないともわかりつつ)ある程度カタチにできた際にご報告させていただきたい!と思っていました。今後も社会のための変革の1歩を担っていくべく、努力して参ります。有難うございます!

  103.  一新塾8期ですので、20年近く以前からお世話になりました柳澤美樹子です。35年、「旅・食・人」をテーマに著述・編集の仕事をしていて日本全国を取材で回っていますが、既に10年ほど前からは各地で「フィルムコミッション」ということばがまったく特別のことでなく地域に溶け込んでいることを感じています。もうとっくに、「それを誰が着想して普及させたのか」などということに、誰も気に留めなくなっている。その空気のような状態を、誰よりも喜んでいるのは前澤さんだろうなと考えていました。
     前澤さんがフィルムコミッションを立ち上げて広げていらしたことは、先進事例として私の大きな励みになり、つい近年ですが旅LABO本郷という団体を作って日本の旅の未来を少しでもいいものにしていこうとしています。ぼんやりとした中での手探りですが、小さなことでもひとつひとつ行為していくことで、空気のような何かを残していきたいです。
     一新塾での、深く塾生のことばを理解した上での建設的なコメント、忘れません。
     どうか、今の時を豊かにお過ごしください。私も、そうありたいと思います。

  104. 前澤先生、ご無沙汰しております。
    山梨県立大学一期生の依田 諭です。

    先生の今の病状を伺い、正直ショックで何て言葉を残すのが正解なのかわからず、モヤモヤしてる日が続いておりました。
    でも、何も残さずにいたら後悔するだろうと思いメッセージを残すことにしました。

    在学中に先生の講義を受講しませんでしたが、前澤ゼミと熊谷ゼミとの合同合宿の時にメディアリテラシーについて教えていただいたことは衝撃でした。
    当時の私は、TVや新聞などマスコミの情報は正しいと思っていたので。

    前澤先生は、いつも鋭く物事の本質を捉えているように見えていたので、先生と話をするときはドキドキしながら話をしていました。

    在学中も卒業してからも、先生と話を出来るときは、常に刺激をもらえました。
    そんな先生も残り僅かの人生と伺い、今の自分の生き方について、本当にこのままでいいのか考える時間が増えました。
    死は誰にも平等に訪れるものですし、いつ私も死を迎えるのかわかりません。しかし、先生との交流の中で学んだことを活かしながら、残りの人生を歩んで行きたいと思います。

    まとまりのない文章になってしまい申し訳ありませんが、今まで本当にありがとうございました!
    そしてこれからも見守っていてください。

  105. 一新塾39期及びOBOG41期生です。
    ご講義及び卒塾の際にプレゼンを聞いていただきました。ありがとうございました。
    (弘明寺商店街ではたらく事についての学びの場を作るプロジェクトを進めていた者です)
    卒塾後、自分のプロジェクトを実現させようと動いていた矢先に自身の難病が発覚し、波がある体調と付き合いながら毎日仕事と暮らしをいかに楽しくより良く過ごしていくかを模索しておりました。
    加えて新型コロナのこともあり、思うように身動きがとれず歯がゆい思いをしておりますが「出来ることは少しでもやり続ける」と決めて、私なりに挑戦を続けていました。
    その矢先のお知らせに大変驚いております。
    死から逆算して今をどう生きるべきか、という過ごし方の一つを示して頂いたように思います。
    難病と向き合うことで私もいつかは死を迎える日が来るんだと意識し始めて、部屋の整理をはじめています。
    ただ、今は生きている。
    生きている今を、最後の瞬間まで悔いのないようにどうするのかを考えて行動しなければ、と改めて考え始めました。
    ないものを見るのではなく、あるものを見る。
    今、この状況で最大限できるものは何なのか?考えて好きないように行動に移すことの大切さを前澤様の生きざまを見て感じました。
    また、自分の人生の舵は常に自分が握っていることの大事さを教えて頂きました。
    体調を整えて再びOBOGコースで今の状況で改めて整理しようと思いはじめ、その際にまたお話を伺えるかもしれないと楽しみにしておりました。
    ロバおじさん計画を立てておられたとのことですが、ロバと一緒にいるお姿が目に浮かぶようです。
    またお会いできる機会がありますように。
    そして、弘明寺商店街でのお話を聞ける機会がありますように。

  106. 前澤さんへ。
    一新塾でのご縁から、前澤さんに声を掛けて貰って、今から20年以上前に、静岡県伊東市で、【きてきて先生プロジェク⠀】やりましたね。フィルムコミッションでの組織作りのノウハウを思う存分発揮して貰い、今思えば、随分先進的な社会教育活等を立ち上げましたね。
    前澤さんのラディカルで、反体制的でありながら、マイルドでフレンドリーなチームビルディング能力をまじかでたっぷり勉強させて貰いました。
    僕より少し先輩だけど、今思えば、とてもウマが合う同志でもありました。
    もしも、本当に僕より少し先に天国に行ってしまうのなら、類まれなチームビルディング力で、前澤コミュニティを作って待っていて下さい。出来る事なら先になんか行かなくて、もう1度シニアの気合いを今の若者達に見せつけてやれるような、社会課題解決プロジェクトを一緒にやりましょう!

  107. 前澤様
    一新塾30期、41期OB熊澤健です。森嶋先生よりお知らせをいただき、一言お礼を申し上げるためコメントを寄せております。
    一新塾では数多くの受講をしているので、私のような記憶力の無いものは忘れている講義も多いのですが、前澤様のフィルムコミッションについての講義は「先生と呼ばないでくれ」という言葉やざっくばらんな語り口とともに印象深く覚えています。
    私は地域活動をライフワークにすると50代にして決めましたが、一市民として、主体的市民として生きる生き方に前澤様の講義は一つの指針となっています。本当にありがとうございます。
    いつかどこかでまた楽しい話をお聞かせください。
    返信不要です。

  108. 前澤先生、つい数ヶ月前に前橋でお会いしたばかりですが、次はどんな口実で時間を裂いていただこうかと思案しておりまた。
    ロバの鳴き声、日本三大天神社、ナシ族、八十八ヶ所巡り、島プロジェクト….どんなテーマであっても、必ずキャッチボールが成り立つ先生のコミュニケーション技術、それを支える好奇心と教養の高さ、そして根源的なバイタリティの強さ。どれも見習いたくて、日々いろいろ
    楽しく挑戦しています。

    島プロジェクト(SharingRhizome)の方も少しずつですが進展しています。楽しい世界作りのために、もうしばらくお力をお貸し下さい!

  109. 27期本科で「療育は両育PJ」を立ち上げた重光喬之です。

    在塾中、前澤先生とお話する機会はほとんどありませんでしたが、講義や卒塾生への歯にきぬ着せぬ的確なコメントを聞いて、ワイルドな風貌に反して愛のある方だなと、少し憧れていました笑

    ここ最近の発信を拝見して、最後まで軽やかに、人生を楽しんでいるのではと感じています。写真の笑顔がとてもステキです。

    私自身は、制度の狭間にいる難病者の社会参加の選択肢を増やそうと取り組んでいます。フィルムコミッションの立ち上げに学び、産官学を巻き込んで、縁の下の力持ち的にできたらと、疾患名を超えた多様な社会参加の実現を進めています。
    15年前から難病を患い、普段は日々の疼痛で気づくと思考が停止しクサクサして、仲間やご一緒いただく方々に刺激を受けて、前向きになってまた倒れるを繰り返しています。

    先生はこれまで闘病や今現在もどこか面白がっている(不謹慎な言い方でしたらすみません)のではないかと思いました。蓄積してこられた言葉や取り組みから少しでも先生のことを知れたらと思います。

    最後まで発信をしていただき、ありがとうございます。

    前澤先生の日々が穏やかでありますように

  110. 前澤さん

    一新塾 大阪地域科の卒塾生である村松と申します。43期として入り2019年に卒塾しました。一新塾では1年間、数多くの事例を学びました。その中でも特別に印象に残っているのが前澤さんのフィルムコミッションの話です。

    私は大阪にて児童虐待撲滅および子供の支援活動をしております。児童虐待の問題は社会、地域、文化、家庭、教育など複合的な要素が関係しており、一つの問題を解決すればよいものではありません。個人で児童虐待を研究していく中で海外の成功事例をいくつか学びました。

    現在、実際に海外での事例を日本でも導入を模索しております。その進め方として参考になるのがフィルムコミッションの話です。私も仕事でシステム構築のプロジェクトマネジメントをしてきましたが、フィルムコミッションほどの成功体験はありません。フィルムコミッションの話はステークホルダーを非常にうまく巻き込んだ素晴らしい事例です。

    今後、児童虐待の問題解決、ビジネスでの問題解決する際には、フィルムコミッションの話を再度読んで参考にします。

  111. 44期中垣です。湘南国際化PJのリーダーです。昨年の中間発表の際は、最初のフィールドワークで「江の島の人は誰もインバウンドなんか望んでないよ」とラーメン屋のご主人に打ちひしがれた逸話を話すと大笑いされていて、「ああこの人はユーモアを昇華させる器の大きい人だ」と感じ入りました。私もフランスで日本映画祭のメインスポンサーをしたり、友人のフランス人が48時間で映画を作成するイベントを支援したりと映画に深く関わってきました。前澤さんとはもっと色々酒飲みながらお話させていただきたかったです。コロナで卒塾プレゼン出来ませんでしたが、前澤さんの破天荒な生き方は是非参考にさせて頂き私も必死で生きて行きます。ご指導有り難うございました!!

  112. 前澤先生
    山梨県立大学1期生、ゼミでも大変お世話になりました矢崎です。
    大変ご無沙汰しており、申し訳ありません。

    前澤先生との出会いは大学1年のオリエンテーションの移動時のバスで隣に座らせていただいてお話をしたことがきっかけでした。
    卒業までの間、多くの経験をさせていただき、非常に濃くて、他にはないユニークな大学生活を送らせていただきました。今でも大学時代のことを周囲に話すと、すごいことをやっていたんだねと驚かれます。
    前澤先生に出会えたからこそ特別な時間を過ごすことが出来たのです。本当に感謝しております。

    また先生は常に先頭に立って新たな試みをし、私たちを知らない世界へ連れて行ってくださいました。道を切り開くことの大切さを学ばせていただきました。そしてそれは今も私の仕事やプライベートにも生きています。より良くするには、より面白くするには、より喜んでもらうには従来のやり方とは違う手法が必要だと。
    就職後も大学へ伺い、もっと多くのことをお話しすれば良かったと今更ながら後悔しております。行政のやり方を「ナンセンス」と一蹴して、もっとこういう手法があるんだよ!と前澤先生の考え方や着眼点などもっと学ばせていただくべきでした。
    ですが過ぎたことを悔やむことは先生から学んだことに反することと思いますので、不肖の教え子ではございますがこれからも先生の生き方を糧にし、これからも精進していきたいと思います。

    最後に、お誕生日おめでとうございます。私も先生と同じ日に34歳を迎えました。2年前に長男が生まれ、仕事に育児に奮闘しております。
    今の自分があるのは前澤先生のおかげです。本当にありがとうございます。

  113. 前澤先生

    水戸部さんから連絡を受け、とてもびっくりし、悲しく、寂しくなりました。
    しかしこのメッセージ欄の存在を知り、前澤先生らしいなぁとすこし笑ってしまいました。
    在学中は、「メディアリテラシー」の授業と「よつびし総研」でお世話になりました。
    卒業後は中華街に飲みに行ったり、私の最寄り駅まで来てくださり一緒にランチをしたりと、在学中よりも先生と沢山お話をすることができて本当に嬉しかったです。
    特に先生のご旅行のお話を聞いたり、写真や資料を見せていただいたり、また私の仕事や子育ての悩み相談に乗って頂いたことがとてもありがたく、そしてとても楽しかったです。
    先生、こんな想い出を振り返ると、本当になんでもない会話や食事の時間が、なんてかけがえなくて、なんて幸せなんでしょう。
    バタバタと猛スピードで過ぎていく毎日。
    いつだって簡単に忘れてしまえる、「今」を、きっと、もっと、大切にして生きていきたいです。
    前澤先生、本当にありがとうございました。
    お疲れ様でした。

  114. こんにちは。
    一新塾で、お話を聞いた加藤丈晴と申します。
    といいながら、ADHDなので、前澤さんのお話し、よく覚えてなかったのです。
    森嶋さんのメールが届いているのをみて、ふと気になり、ホームページをみて、ここに至ります。

    いい営みですね!新しい生き方、新しい旅立ちかたですね。

    博報堂やめて、出羽三山で、山伏になって、外国人の人と修行しています。

    山伏修行って、死と、再生なんです。

    人はなくなると、魂になって山に上がっていく、
    と、考えてるそうなんです。

    なので、山の上に上がると、祖先の魂と触れ合えると。

    今の世の中、死に方が難しく、送り出す方も、送り出される方も、生き物としての旅立ちのタイミングを逸することがままあるんだなあ、と、昨年父を看取った時に、経験しました。

    生まれ変わりなんて、現代社会では荒唐無稽でしょうし、僕自身も、リアリティ持っているわけではありませんが、でも、生まれ変わらない証拠もないわけで、生まれ変わると思っていた方が、旅立ちが軽くなるのかなと。救いになるから、人類が育んで残してきた物語であり、ソリューションだったんでしょう。

    現世では、さして接点なかった前澤さんの思いや、足跡にこうして触れられたのは、とってもよかった。

    来世でまたお会いできる時のを楽しみにしつつ、現世では、良き日々をお過ごしできるよう、山から祈念しております。

  115. 41期から一新塾にお世話になっている者です。卒塾式などで前澤さんからプロジェクトへのコメントを頂くことはありませんでしたが、他の方への本質を端的にズバッとつくコメントを聞かせていただいて、私も一度、プロジェクトを評価していただきたいと思っていました。
    そして、まだOGコースにいるためそれが叶うと思っていました。いや、叶いますよね? ものすごくワガママなコメントですが、前澤さんから評価していただくチャンスを私に下さい。復活を待ってます!!! 絶対に待ってます。 このままはイヤです…

  116. 県立大国コミュ1期生の塚田涼子です。
    ご無沙汰しております、先生。
    先生は私のこと、覚えていらっしゃらないかと思いますが、
    とてもお世話になりましたので、お礼申し上げたく書きます。

    先生のことで、一番記憶にあるのは、
    プレゼンテーションの授業です。
    確か、ビデオ撮影して話している自分を客観的に見ることをしたと思います。
    その授業がとても苦手で、とても緊張したのですが、
    視点を変えて自分を見ること、相手の立場で意見を聞くことの大事さに
    気づくことができ、その後社会に出てからもプレゼンの機会などの度に
    先生の授業を思いだしていました。

    今、私は縁もゆかりもない土地で子育てしながら生活しています。
    先生にご相談して入社した会社を辞めて、
    憧れだった都会の生活も辞めて、
    まさか子どもを育てることになるなんて
    学生の頃の自分には考えられないことが起きています。
    先生はいつも、物事を一面で捉えることなく、多面的に、そして本当に正しいのか、
    正しさとは何か、を私たちに問うていらっしゃったように思います。
    だから私も、これまでの自分の考え方とこれから生きる自分の考え方が違っても
    常に正しさを見いだそうとして生きていたからだ、と思うようにしました。
    先生のことを伺って、先生のことを思いだして、なんとなく、迷いだらけの自分のこれまでの人生もそれはそれで良いかなと思えるようになったのです。
    離れていても影響を与えてくださるなんて、先生やっぱりすごい!

    先生、とてもチャーミングでおしゃれで、学生の意見も真摯に聞いてくださって、
    マイノリティであることもおそれず、強く、優しい。
    私も、先生を目指して日々を紡いでいきます。

    先生、感謝してもしきれません。ありがとうございます。
    いつか、どこかで、またお話したいです。

  117. 前澤さん、お世話になりました。
     初めてお会いしたのは、桐生市での「わたらせフィルムコミッション」のシンポジウム後のパーティーでした。館林出身と伺って、同郷の私としてはまずは名刺交換から―と。
     5年後には「渡良瀬通信」でのインタビュー、さらに弊誌主催のフォーラム「ロケ誘致はまちを救うか?」での基調講演。一昨年は足利で、前澤さんプロデュースの映画「うりずんの雨」の上映会を開催し、白血病の闘病中という前澤さんに、上映後1時間近くのトークまでお願いをしてしまいました。
     この上映会では、今までとは違う前澤さんを知った気がします。とても気さくで、偉ぶらず、われわれに負担を感じさせない話し方、対応。それまでは向き合うと何故か構えて話さなければと思っていたのですが、そんな必要のないことを気づかせてくれたのでした。
     昨年夏、前澤さんが企画した全国フィルムコミッションの同総会に、日本中から30人くらいが集合。全員が前澤さんを慕って「何があってもかけつける」という人たちばかりでした。そんな中で終始笑顔でひとり一人と握手をし、再会を喜び、一番うれしそうな顔をしているのが前澤さん。そんな集いに、フィルムコミッションとは関わりのない私を招待していただき、面白そうに、私を皆さんに紹介してくれたのでした。この席では、映画とは一番遠い私はオロオロするばかり、ただただ皆さんの話の聞き役に徹するしかありませんでした。
     さて、フィルムコミッションといえば、足利市は6年前から『映像のまち』を標榜し、役所の中に「映像のまち推進課」までつくってロケ誘致に取り組んでいます。が、その成果というと市民の間では賛否両論。私は当初から「前澤さんにプロデューサーとしてお願いした方がいい」と思っていたのです。そして、以前前澤さんが仰っていた「ローマの休日のようなロケを呼べるほどのフィルムコミッション」の実現を見てみたいと、今でも思っているのです。
     最後に、ロバの件ではお力になれずに申し訳ございませんでした。

  118.  新型コロナウイルス禍による自粛生活で思わぬ時間ができ、録画や撮影した映像の整理に取り掛かかっている。そのうち見ようと40年近くたまり、まずメディアの変遷を遡ることから始めなければならない。8mmフィルムからβ、VHS、8mmビデオ、DVテープ、そしてLD、DVDからブルーレイまで・・・凄いことになっている。HDDへの取りこみは、やっと、β、VHSまでが終わりそうだ。いつになったら、コンテンツを楽しめるのだろうか。我ながら、あまりゆたかとは思えない。
     そこへ行くと、前澤さんは違っている。コンテンツを楽しむことや体験することに時間を使うことを重要視している。それに合わせた仕事やライフスタイルを実践している。やり残したことも悔いもないという生き方は、私にとって気になる存在で、大切な友人です。

     思えば、「ミロシティ映像情報都市研究会」で知り会い25年来の交流になる。1997年に開催したシンポで、「超産業 シアトリカル都市構想」として「人が中心ではなく、効率や生産性だけを追求し、環境を破壊する産業でいいのか」と投げかけた課題は今も変わらない。
     当時、羽田の空港跡地の再開発について議論しましたね。幾度となく蒲田に集まり議論しワインを楽しんだことは良い思い出です。
    ファイルに前澤さんのアイデアシートが残っていました。「24Hディスコ大駐車場付き、24H学習塾合宿制」、「世界一長い子供用ゴーカートコース」、「24H型大コンビにセンター・大OUTLET、ウイークリーマンション街」の3枚。200haあった跡地の大半は国際空港のために使われ、大田区に残った17haほどの土地の再開発が今月竣工します。建設・不動産屋の事業コンペで、一部はライブホールや中期滞在施設など前澤案に似た施設もあります。しかし、事業利益だけを優先する再開発がどんな意味があるのだろうか。このコロナ禍をその警鐘としたいところです。

     同じ時代に、体制のしがらみの中にいる私と違い、前澤さんはSONYを出て自己の生き方としてマイノリティーを主張し発信してきました。教育を通じて、たくさんの種を撒いてきたことも素晴らしい。いずれ一緒に旅行や体験を楽しめたらと思っていましたが、難しくなったようですね。前澤流の生き方は、いつでも取り出せるように私のポケットに入れておきます。
     少し遠くに旅に出る前澤さんに、さよならは言いません。素敵な旅になることを心より願っています。時には、お便りをお待ちしています。

  119. 先生にお会いして、色々学ばせていただき本当にありがとうございました。先生の発想は私の想定内を遥かに飛び超えていました。驚きの連続で、わくわくしました。
    車に貼ったワッペンがあんなになって、すごいことですね。
    富桜会の会報作業では、題材の選び方、取材の仕方、レイイアウトなどを教わりました。今振り返りますと、私の発想の域を大幅に広げてもらったのだと、気づかされます。
    先生に出会えたことは、私にとっては、八百万の神様からの贈り物だと思っています。
    昨日コメントを送ったつもりでしたが、届かなかったようです。相変わらずおっちょこちょいで、何か落ちがあったようです。先生にお伝えしたいので、くどくて申し訳ございませんが、メールにも書き込みます。

  120. 前澤哲爾さん

    森島さんのメールで病気の事知りました。最後に、どうしても一言お礼を申し上げたく急いで筆をとりました。

    会社員だった私が政治を志すきっかけを作ってくださったお一人に、間違いなく前澤さんの存在がありました。

    単に政治に興味のあるOLとして参加していた一新塾一期生。塾の後の飲み会で、稚拙な私の話をいつも笑顔で聞いてくださり「どうしてそう思うの?」という素朴な問いかけを何度も何度もして頂きました。その問いが繰り返された結果、私は人生は自分のために生きるのではなく「周りを幸せにする為に生きるのが人生だ」と初めて知ることができました。その後、会社員の人生を捨てて、縁もゆかりもない政治の世界に、思い切って飛び込む勇気が持てたのも前澤さんの力添えのお陰と言っても過言ではありません。

    つい数ヶ月前に議員会館で偶然お目にかかり、少しの間ですが私の部屋にお越し頂き、2人でゆっくりお話しする時間が取れたこと今となれば、神に感謝です。私の地元大阪の、健都の街づくりの話をさせていただいた時「政治家として、ちゃんと頑張ってるね」と笑顔で前澤さんに言われて本当に嬉しかったです。政治の世界に導いて貰った方にそのように言われて‥先生に認められた生徒の様に、救われた気持ちが致しました。

    ロバを飼って、子供達を喜ばせるんだ!と嬉しそうに語っていらっしゃる姿が今も忘れられません。前澤さんは、こらからも人の喜びの為に尽くす人生をずっと実践なさるのだと思っていました。

    私はまだ前澤さんの考え方が徹底出来るほどの政治家にはなれていません。でもここで、前澤さんの教えを胸に、日々精進し努力して政治活動を続けることを誓います。そして、いつも日にか、もしかしたらこの世ではないかもしれませんが、前澤さんにお目にかかった時、人の喜びの為に尽くす人生を生き抜いたと、キチンと報告できるように、精一杯頑張ります。その時が訪れたら、前澤さんを探しますから、手を振ってサインくださいね。

    私の人生に前澤さんが存在してくださったこと、心から感謝申し上げます。今まで本当にありがとうございました。

    衆議院議員
    とかしきなおみ

  121. 前澤哲爾さん、本当に残念でなりません。ライターズ・ネットワークでお会いし四半世紀経ちました。フィルムコミッションという一大運動を興されたことは私にとって刺激になりました。渋谷のカラオケでGLAYの『口唇』を熱唱する姿、いまでも思い浮かべることができます。また、山梨県の大学に呼んでいただき、学生さんに話をさせていただいたのもよい想い出です。前澤さんの生き方に敬服しています。楽しくお付き合いさせていただき、有り難うございました。

  122. 前澤先生
    一新塾でお世話になっております菊地です。
    塾生の時からたくさんのお知恵をいただきました。フィルムコミッションの立ち上げのお話に胸を躍らされました。
    卒塾後も自分が住む地域の良いところを自分たちで発信していくということが活動の原点となりました。
    2018年10月に蒲田においでいただき映画「未来シャッター」を観た感想くださったことが蘇ります。
    先生がプロデュースされた作品を是非キネマフューチャーセンターで上映したいと強く願っております。
    お元気になられて、たくさん映画のお話しができると信じております。
    悔いなき人生かもしれませんが、まだまだ私たちは先生から学ぶことがたくさんああります。
    またお話し聞かせてください。

  123. 杉山千郷です。
    前澤先生と初めてお目にかかったのは、一新塾の講義の場でした。
    前澤先生は、お姿、服装、振るまいにも、ご自身の世界観が溢れ、かっこいいな!と思ったのが、第一印象です。
    講義の内容も、たいそう面白く、ためになり、もっと長く先生の講義を受けていたい、と思っていました。
    その後も、前澤先生には、私の参加しているプロジェクトのことから始まり、人生相談や世の中の興味深い事柄などについて、幅広くお話する機会をいただき、偉大で年上のお友達、と思い、お慕いしてきました。
    私は、自由に好きなように生きている、前澤先生の生き方に近づきたい、とずっと思っています。
    一級の教養人かつアイデアマンでいらっしゃる前澤先生、心から尊敬しています。
    これまで本当にありがとうございます。
    先生のお身体がよくなり、再びお会いできるように、と、毎日祈っています。

  124. ご無沙汰しております.森嶋さんからの突然のご連絡に驚きました.

    光栄にも前澤先生には,一新塾で自殺未遂者支援活動についての発表を聞いていだたく機会がありました.その節には本当にどうもありがとうございました.この経験を活かせるよう,今後も精進したいと思います.

    衰えを知らぬくらい,とても元気でエネルギーに満ち溢れた方だという印象を持っておりました.そんな方でさえ,人間誰しもいつかは……と,普段あまり考えない思いが胸に去来しております.すばらしい映画作品と同じように,いやだからこそ,いつかはエンディングがやってきてしまいますね.7月から転職先で医療用も含めたAIの研究開発をすることになっております.この先端医療の時代に,果たして人生のエンディングはどうあるべきで,なにが望まれているのか少し考えてしまいました.

    良き人生のエンディングをお迎えになりますよう,お祈り申し上げます.

  125. あまりにもスケールが大きくてチャーミングでマニアックで・・・
    後にも先にも前澤さんのような方を一人も知りません
    病に,死に、人間に こんなふうに向かうことができるんですね

    近藤先生の会で直接刺激を受けることができたことに感謝です

    何だか時間軸や場所がはっきりしませんが
    勉強会の会場の高校の教室が異空間になるお話を数回聞かせていただいたり
    大磯のホテルで誰も恐れない発言をされたり
    お見舞いに訪れた病室では見舞客の私たちよりパワフルだったり・・・

    たくさんのものをいただきました
    この多くの方たちからのメッセージ群もわたしたちへのプレゼントにしてくださっています
    ありがとうございます

  126. ライターズネットワークの長です。Facebookの前澤さんの投稿でこのことを知り、ショックを受けましたが、前澤さんらしいとも思い、早々にFacebookのメッセンジャー宛にもお送りしましたが、こちらにも。出会いから鮮烈な印象を残してくださった前澤さん、その後のご活躍ぶりにも注目しておりました。最後にお目にかかったのは、白血病で入院中にお見舞いにうかがったときでしたね。突然のお知らせ、残念でなりませんが、先に旅立った仲間たちと大いに語らってください。いずれ私もそちらへ行きますから、忘れずにいてくださいね。

  127. 一新塾42期44,46期OBOG コースの三神です。
    心を揺さぶる鋭いコメントが、本当の現実を見つめさせてくれる。
    前澤さんの持つエネルギーがあふれ出て、皆に共鳴していく。
    マイノリティであり続けること、その姿を目に焼き付けました。
    心より、ただただ感謝申し上げます。
    ありがとうございます。

  128. 前澤先生との出会いは忘れもしない2018/10/5でした。
    以前からフィルムコミッション生みの親など御名前を知っていましたが、小生にとっての「キネマの神様」は、川崎のシネコンで洋画.邦画「散り椿」をはしご鑑賞しその足で、我が拠点、蒲田キネマ通りにある掘立小屋(キネマフューチャーセンター)迄、ふらっとお越しくださいましたね。
    当法人npo製作.拙作「未来シャッター」のロングラン上映中でしたが、お客様が途絶えそうな時でした。

    終映後、商店街のアテをつまみに対話をして、映画の感想を戴きました。
    本作が、前澤先生の人生を変えた「ジャン=リュック・ゴダール の『ウイークエンド』を思い出しました!」というこの上ないおコトバ。 もう感無量としか言いようがありませんでした、。夢か事実がわからないと困るのでアンケートに一筆、記入してもらいました。
    我々の映画活動の励みと誇りになってます。
    キネマのまちの灯は消えることなく、映画談義にいろいろアドバイスまで頂戴し、キネマ通りのゲード入り口の門をでた辺りまでずっとお話しながら歩いたのを覚えています。
    次回、武蔵小山あたりで一杯ご一緒してくださいと約束しました。
    「キネマの神様」は人々の救いでなければならない。映画活動のほんとうの大切さは、何かをご教授いただいた恩人であります。
    ふと、感じました。前澤先生は人の心境や物事の筋道をさとり、ジャンプカットした見えない魂をつないでくださる天命があるのだと。

    心から感謝しております。 ありがとうございます。

    前澤哲爾forever!!

  129.  前澤先生、お久しぶりです。総政1期生の三森佑樹です。(@勝沼ぶどう農家、山梨県庁)

     先生には、特に「よつびし総研」でお世話になりました。教授っぽくない風貌、毎日変わる腕時計、そして勢いある言葉。中でも印象深いのが「よつびし総研」でのプレゼンの際、「君の発想はナンセンスなんだよ!!」と勢いよく言われ、面食らったことでした(笑)

     私は現在、東京にある「政策研究大学院大学」で修士取得に向けて再び学生をしています。毎日の授業、レポート、修士論文のテーマ設定などなどで懐かしい日々を過ごしてます。先生に「君はナンセンス!」と言われないよう学生らしく常識に縛られない発想を持っていきたいです。

     前澤先生にいつか褒められるよう「自分らしさを忘れずに」生きたいと思います!そして、前澤先生のように常に新しい発想を持って生きたいと思います!

  130. 前澤哲爾先生。一新塾44期生の秋山泰隆と申します。先生とは2019年9月12日一新塾の教室でお会いしました。森嶋さんからメールをいただき、本当に驚いております。先生にメッセージをご送付させていただくあたり、再度DVDで講義を聞かせていただきした。その中で、印象的であったのはやはり先生の生き様そのものでした。様々なことにチャレンジ(先生の講義では「依頼されたもの断らないが大切」と言われていました)し、そして、課題を一つ一つ解決しながら進んでいく姿勢(フィルムコミッションでの著名人を巻き込む方法等)は感動すら覚えました。人生の節目で先生のお話を聞かせていただいたことは、人生においての大きな糧になったと思います。本当にありがとうございました。先生、今年も一新塾の教室でお待ちしております。(OBOGコースに入学しました。)絶対に待っておりますので、必ずきてください!これからもどうぞよろしくお願いします!

  131. 前澤さん こんにちは

    私が前澤さんと初めてお会いしたのは、多分”蒲田倶楽部”と言う名の親
    睦会だったと思います。(なんで倶楽部と称しているのかは未だに解りま
    せんが...)
    私が映画好きということでなのか、在籍している社の上席から声を掛け
    られても参加でした。
    そこでは映画界でプロデューサー業をされている方、電器メーカーで映
    像関連事業にいた方も、メンバーにおられて、興味深い話しを聞くこと
    が出来ました。

    映画祭でお会いすると、「(会場で)君と一緒にいるグループは何なの?」
    と、聞かれ、「パソコン通信のアジア地域の映画好き掲示板の知り合い
    達です」と、答えたのですが、上映前、あるいは終映後、挨拶しあう姿
    は、確かに不思議なグループに見えたのかもしれませんね。
    映画好きあるいは電影迷は、銀幕の前では、前を向くだけです。
    座席は自分の好みの席で、しかも作風や監督、俳優で、見る作品も自由
    でバラバラです。
    挨拶していても、実は本名を知らないなって人いたりします(笑)
    国内の映画祭や、海外offと称して合流する際も、1回は集まって食事
    をするほかは、映画館へは数人で一緒に観ることはありましたが、搭乗
    便も宿泊ホテル等、基本的にはバラバラでした。
    台湾では、offの後タクシーで宿泊ホテルに合わせて一人下り、一人下
    りて行くと、運転手(台湾では”運将”と書いて、古い日本語の「ウンチャ
    ン」と呼ばれます)が、
    「友人なんでしょ?何で同じホテル泊まらないの?」と、質問されたこ
    ともありました。
    一連託生のような繋がりはないので、私にとって居心地の良い世界です。

    海外へ旅行する際も、私は、映画のロケ地を訪ねたり、映画や芝居を観
    たり、市場巡りをしたり、友人との食事をしたり、現地の鉄道ほか公共
    交通機関への乗車したりするのが主目的なので、観光地巡りの旅になり
    ません(笑) 団体(グループ)旅行は苦手です。
    海外で生活していなくとも、日本での生活を窮屈に感じてしまうタイプ
    です。
    前澤さんも、どちらと言えば、群れるのを好むタイプでは無い人かな?
    と、勝手に認識しています。
    一人での自分教としての神棚を奉ったりしている姿を拝見したときは、
    ラージクマール・ヒラーニ監督、アーミル・カーン主演のインド映画
    『pk』(2014年)(インドで宗教問題をテーマにした映画が製作、公開さ
    れるのは少ない)を連想しました。

    最近の映画祭や、新型コロナウイルス肺炎蔓延前の海外等で観た作品で、
    面白かったり、良かった作品は、台湾作品では『返校』、香港では『葉問4』、
    『惨めな人』(淪落人)、韓国は『はちどり』、『82年生まれ、キム・ジヨン』、
    タイはナワポン・タムロンラタナリット監督『ハッピー・オールド・イヤー』、
    中国では、『流転の地球』(流浪地球)、インドではサルマン・カーン主演の
    ディーワーリー時期作品ですが、『プレーム兄貴、王になる』(Prem Ratan Dhan Payo)
    あたりでしょうか。
    また、前澤さんたちと映画談義が出来ると良いな、ある日何処かで...
                      K.KOTANI

  132. 前澤さん
    ご無沙汰しています。全いるちです。
    すっかりお元気になられてお招きくださった時の真っ赤なスーツ姿の前澤さんを思い出しています。

    実は私も昨年の春、意識不明のまま9日間倒れていました。家族は見送る準備までしていたようです。原因はわかりませんが、ちゃっかり何事もなく起き上がったのは、誰が決めたのか、死ぬことを許してもらえたなかっただけのことだと思っています。いつか「もういいよ」と許してもらえる日を迎えられるよう、

    前澤さんのようにマイノリティである続けることを真っ当して行きます。

    たくさんの気づき、学びをいただきました。前澤さんと同じ時代に生き、ご一緒できた全ての時に感謝しています。あんにょんひけせよ〜♡

  133. 山梨県立大国コミュ1期生の佐藤志穂です。

    白血病が発覚された際、同じ1期生の田中裕と一緒に
    厚かましくもお邪魔させていただきました。
    その後、SNS等でお元気な様子を拝見していたので、
    このような知らせを聞き、とても驚きました…

    感謝の気持ちと私のいまをお伝えさせてください。

    先生にお伝えしたかもしれませんが、
    まさか大学で授業を受けている際には、
    自分が広報としてメディアとコミュニケーションをする仕事に携わるとは思いませんでした。

    未熟ながらも、情報を扱う仕事をしていることに、刺激的な毎日を過ごすことができていますが、
    もちろん先生の足元にも及びません。

    そして「あのときもっと真面目に受けていればよかった」と、
    いまになって後悔しています(笑)
    また、「相手の立場に立ってコミュニケーションする」という、
    重要だけれどもその大事なことがおろそかになってしまいそうになるたび、先生の言葉を思い出します。
    (プレゼンの授業でのエゴでしかなかった自分のプレゼンを思い出したりすると、特に。。)

    先生のように、強く、どんなことをするにも、発する言葉にも芯が通っていて、
    どんな道でも応援してくれ、背中を押してくれた大人になれてはいませんが、
    こんな時でも自分の人生について見つめなおすようなきっかけと学びをくださったことに
    感謝の言葉しかありません。

    私も、微力ながら次代につないでいけたら、と思います。
    本当にありがとうございます。

    いま過ごされる日々が先生らしく、
    穏やかなものでありますことを心からお祈りしております!

  134. お会いした事もなく突如友人に紹介されて送り出しのコメントを書かせて頂いております。
     私は15年ほど前に千葉県南部で民間のFCを始め、現在も少し関わるような状況で、
    地域活性を陰ながら応援しながら、撮影の誘致をしております。
    本業(家業)はFC関連ではロケ弁程度関わるような環境でしたが気づくと映画やドラマのロケーションなどを
    専門にコーディネートする立場に変わりました。
     色々と前澤様のお話を聞かせて頂いてもっと早くお会いできていたら・・・という気持ちで一杯です。
    追いつこうなど考えは致しませんがでも前澤様の歩んで行かれました道を私も歩いてみたいな・・・と思いました。
     別れの挨拶など思い付かずおかしなメッセージとなりましたが、
    道中も何か素敵なことがありますように・・・

  135. 前澤哲爾さま
    一新塾の運営スタッフの一員として前橋にある前澤セミナーハウスで何回か合宿させて頂いたのがよい思い出になっています。近くのスーパー銭湯にも連れていって頂きました。
    卒入塾式では会場の最後部で撮影を担当し、モニター越しに接する塾生たちの身体を張った数々のプロジェクトにいつも心を動かされますが、前澤さんの率直で温かいコメントもとても楽しみでした。前澤さんの人を育てる情熱に触れることができた一人として有り難く、改めて感謝申し上げます。

  136. 前澤哲爾さま
    2001年8月「全国フィルム・コミッション連絡協議会」の設立時から今まで、フィルム・コミッションを見守ってくださり、ありがとうございました。今やフィルムコミッションは全国に200あると言われ、連絡協議会を継いだ「ジャパン・フィルムコミッション」には125のFCが加盟しています。
    この礎を築いてくださったお一人として、ジャパン・フィルムコミッションを代表して御礼申し上げます。
    現在のフィルム・コミッションは撮影誘致支援だけにとどまらず、地域の文化、産業、観光など幅広く広まり地域経済の一翼を担い、そして日本、海外からの撮影をしっかり支えられるまで成長しました。
    いづれ、私たちも、あちらへ行きますが、あちらでもフィルム・コミッションが求められるかもしれませんね。その時は先によろしくお願いいたします。

    NPO法人ジャパン・フィルムコミッション理事長
    泉谷昇

  137. 2003年13期生として一新塾に入塾し、翌年から運営スタッフとしてお手伝いさせて頂いている渡辺雅則です。
    運営スタッフの一員として前橋にある前澤セミナーハウスで何回か合宿させて頂いたのがよい思い出になっています。近くのスーパー銭湯にも連れていって頂きました。
    卒入塾式では会場の最後部で撮影を担当し、モニター越しに接する塾生たちの身体を張った数々のプロジェクトに心を動かされますが、前澤さんの率直で温かいコメントが毎回とても楽しみでした。前澤さんの人を育てる情熱に触れることができた一人として有り難く、改めて感謝申し上げます。

  138. 前澤先生へ

    山梨県立大学第3期生、国際コミュニケーション学科の實川です。
    先生の授業「プレゼンテーション」を受講させて頂いておりました。
    とても印象深い授業で、13年くらいたった今でもよく思い出します。
    初回のクラスで、「私は〇〇です。」と、自分にキーワードをつけて自己紹介しました。
    当時、大学の演劇部でサクラダ・ヨシノをいう役柄を演じることになっていたため、宣伝もかねて「私はサクラダ・ヨシノ」としました。
    黒板(白版?)の前に立ち、クラスメートに背中を向けて話始めました。
    本当は、すごく恥ずかしかったんですよ!
    でも、演劇部員だという自負と、社会人入学した大人(35歳)として、堂々と振舞いたかったんです。
    私のプレゼンテーションは、いつも時間オーバー気味でした。つい、色んなテーマを盛り込みすぎて。
    発表後に、「實川さんはサービス精神旺盛だから、あれもこれもと、内容が盛り沢山になってしまう」と優しい笑顔で仰ったのを、
    昨日のことのように覚えています。
    試験かレポートに、「実際以上に自分を大きく見せたくて、つい見せびらかしてしまう」と書きましたら、「みんな同じですよ」とコメントを下さいました。
    その言葉に、私は救われた思いでした。
    最後のプレゼンテーションでは、テーマをしぼり、時間内におさめることができました。
    卒業後も、人前で話すときは気をつけるようにしています。

    前澤先生とはその授業以外でご一緒することはあまりなかったので、私は先生のことをよく存じ上げないまま、今を迎えています。
    しかし、Facebookでお友達になって頂き、今ごろになって、なんて興味深い、素敵な生き方をされているんだろうと、驚いています。
    私のほうは、大学卒業後、メキシコにある日系企業に通訳として就職しました。
    ろくにスペイン語も話せないのに、よく雇ってもらえたと、自分自身、びっくりしました。
    仕事がうまくできず、数年間苦労しましたが、周囲の方々の理解とサポートのお陰で、なんとかやってこれました。
    少しゆとりができ、約3年前に小さな和風茶屋を始めました。
    日本文化の紹介の他、提供する食事は全てヴィーガン、オーガニック、シュガーレス、グルテンフリーと、超マイノリティなメニュー!
    「肉がなければ食事じゃない」くらいに肉食がメインのここドゥランゴで、「何やってんの??」と笑う人も多かったですが、
    細々とですが、自分らしく営業してきました。
    新型コロナウイルスの影響と、思うところもあり、ちょうと1か月前に閉店しました。
    後悔はありません。

    そして今、近い将来、帰国することを考え始めています。(極秘ですが)
    80歳前後の両親の近くにいたいという気持ちが強くなっています。
    先生の投稿に、尾道でロバがお勧めとありましたが、尾道は私の大好きな、プチ「小京都」です。
    3ヶ国語が活かせる仕事さえあれば住みたい町ですが、実際には広島市まで行かないと難しいかもしれません。
    環境のことを思い、将来ソーラーバイクやソーラー自転車に乗りたいと考えていましたが、ロバ・・・いいかもしれません。
    実は、こちらで主に野良犬の保護活動を行っており、いつか酷使されているロバを譲り受けて飼いたいと思っていました。
    私の体重なら、近距離ならロバとお買い物、いいかもしれません。実家のある世羅でも、実現可能かも・・・
    またしても、自分のことをあれこれ述べまくってしまいました。すみません。

    ここから、先生が投稿で書かれていた、死後の世界について。
    読む前から、前澤先生なら、「あったよー」と教えてくれそう、と思った後で
    不謹慎な!と自分を戒めたばかりでした。
    私から、提案が2つあります。
    1.オナガクロムクドリ(カラスに似た鳥)をうちの窓辺に送り込む。
       以前、ある方の葬儀に行くべきかどうか悩んでいたとき、オナガムクドリが窓辺にやってきて、ギャーギャー騒ぎ立てました。
       そんなことは初めてで、葬儀に行く決心をしました。
    2.お皿をくるくる回す。
       お店の子のご家族が亡くなり、頻繁に変な音を聞くようになったある日、レストランでお料理の入ったお皿が勝手に回り始めました。
       私はその場にいませんでしたが、数人の友人が目撃しました。
    いかがでしょうか。ぜひご検討ください。

    最後に、宗教について。
    私は、無宗教です。しかし、ある大きな力の存在を否定はしません。
    そして、現在は、それが何か、知ろうとは思いません。
    死ねばわかることだから、生きているうちは生きることに専念するほうがいいような気が、個人的にします。
    その上で、前澤先生のように、後悔のない生き方をし、最後に友人・知人とコミュニケーションをとって、その日を迎えられるといいなと、心から思います。
    前澤先生は、本当に、人生の先生でいらっしゃいますね。
    ありがとうございます。

  139. 前澤さんがいなかったら日本のフィルムコミッション文化は20年遅れていた。
    今のように日本中にフィルムコミッションが存在することはなかった。
    結果として行政がロケに積極的に協力することにより日本の撮影環境が向上した。
    前澤さんは日本映画史に残るような大仕事をした事になります。
    ありがとうございました。

  140. 前澤先生、ご無沙汰しています。山梨県の内藤博文です。

    以前にもお話ししましたが、山梨県にフィルムコミッションがあるのは先生のおかげです。
    思い起こせば、2002年、日本広報協会発行の「月刊広報」に先生がフィルムコミッションのことを8Pぐらい書かれていました。当時、広報担当だった私は、広報として、こんなことできるんだと、と新しいチャンネルにちょっとワクワクしていました。
     そして2003年、フジテレビの番組でロケ地探しに訪ねて来たので「フィルムコミッションとして対応しますよ」って何もわからないのに答えました。その一言で、WATERBOYSのロケ地を山梨県竜王町に決めた、と後日、制作担当から聞かされました。(もちろんちょうどいい素材があったからですが)
    それから半年、番組制作部から現場で、「フィルムコミッションとは」ということを直に教わりました。
    その後、その繋がりでいくつかの制作部から連絡をいただき、ロケ対応をしましたが、山梨県は広い。
    そこで山梨県の職員に「フィルムコミッションを作ろう」と呼びかけ、呼ばれて体験談を話したりし、数年後「富士の国やまなしフィルム・コミッション」が誕生。

    その後、なぜか山梨県立大学の教授として、山梨に先生が現れました。
    びっくりでしたが、なんて素晴らしいことなんだと思ったものです。

    学生たちと一緒にロケ地データベース作りのフィールドワーク、山梨映画祭の開催など、先生からは多くのことを学ばせていただきました。
    山梨での先生のご活躍と山梨県のロケ対応の実績は、みなさんご存知のとおりです。
    現在、富士の国やまなしフィルム・コミッションの担当は、先生の愛弟子でもあり、先生の思いは、ここ山梨でも、ずっと引き継がれていきます、ご安心ください。
    いろいろとありがとうございました。

  141. 前澤さんとはシャプラニールの運営委員会でご一緒させていただきました。
    いつも鋭いご指摘をされておられましたね。
    聴いていてとても参考になりました。
    2005年東京を離れ、長野、茨城に仕事・暮らしがシフトし、お会いする機会がなくなりました。
    昨年65歳過ぎましたので、今年4月で退職し長野にIターンしたところです。落ち着いたら市民活動を再開し、そちらにも伺おうと思っていたところで、このコロナ状況。
    私も4年前死にかけましたが、何とか生かされた身です。
    生かされている限り役割があるのだろうと思い、生きていこうと思っているところです。

  142. 前澤さん、新設山梨県立大では私が在職4年間限定の老爺であったため短いお付き合いでしたが、学科運営面で大いに助けていただきありがとうございました。
    前澤さん、あなたは賢明にも想像を絶した低次元の学内事情には超然、並外れた行動力と熱意をひたすら学生の動機付けと実地指導に傾注されました。ここに寄せられた教え子たちのメッセージはいずれもその素晴らしい成果を示して感動的です。
    「Life Artist」を自称する人を他に知りませんが、前澤さんが69歳の若さで見事に「Art of  Life」をやり遂げてしまったことはこのサイトを見れば明らかです。唯一「ロバおじさん」(私なら「ロバ爺」にしますが)をやり残すのはそれほど残念ではないでしょう? きっと神は存在してて「前澤君、もういいだろう? もうこっちに来たまえ」と宣うたのでしょう。
    前澤さん、そう遠くない時にまたお会いします。

  143. 前澤先生、ご無沙汰しております。
    山梨県立大学1期生 総合政策学科卒の滝です。『ハッピー』と言えばすぐに思い出して頂けるでしょうか。
    私にとって、楽しく、充実した学生生活に、大きなきっかけを与えてくれたのがYDPと前澤先生でした。これまで、まともにお礼も言えずすみませんでした。
    本当にありがとうございました。

    私が結婚して、間もなく14年になろうとしています。子どもは3人に増えました。当時は小さかった長男は、もう中学生になりました。
    月日の流れの速さを子どもを通して感じることがよくあります。
    先生が『学生は自由』と言っていた意味が最近になって、理解できました。
    先生は覚えていないと思いますが、同級生数名と先生の研究室で『10代の結婚』について話をしたことがあります。
    その時、先生は「10代で結婚してうまくいったという話は聞いたことがない。絶対に続かないよ。」といったことを話されていました笑
    もちろん、この時はまだ私も先生も、私が『10代で結婚』するとは知らなかった時です。
    他愛ない話ですが、この時の会話はずっと僕の心の中に残っています。
    決して根に持っているということではなく、私に対する激励の言葉としてです。
    先生、私の『10代での結婚』は、先生の言っていた『うまくいく』に当てはまっているのかどうかは分かりませんが、山あり谷ありながら、絶妙なバランスで14年間崩れることなく保たれています。
    もしも、当時の先生の言葉を否定できたと先生に認めてもらえたら、少数派の人間だと、少しだけでも、認めて頂けたら嬉しいです。
    これからも人生の課題として、妻と二人で先生の否定を証明し続けていきますが…。

    私のくだらない話が、先生をクスッとさせられたら幸いです。
    お身体がお辛いとは思いますが、充実した、ハッピーな日々を過ごされることを祈っております。

  144. 先生、ご無沙汰しています。
    県立大学1期生の望月芙結子です。
    突然のことで驚きすぎて、どんなことを伝えていいのか全く纏まらないです。
    先生には、メディアリテラシーの授業でお世話になりました。実を言うと、あまり楽しいと思えなかった大学時代。先生の授業は、なぜだか一番印象に残っているのです。
    皆と会話をし、苦手な発表も、先生のクラスだけは嫌だなと思うことがありませんでした。
    先生がきっと、学生が話しやすく、積極的になれる授業作りをしてくれていたのだろうな、と思います。
    私は大学卒業後、金融機関に勤めたのですが、いま新たに人生模索中です。それにも関わらず、何にも取りかかれていません。
    だから今回、先生の『やり残したことはロバを飼うことくらい』に笑い、そして、さすが先生…と思いました。
    私はいま、もしものことがあっても悔いばかりです。やってないことが沢山あります。このままじゃダメなんだ、と先生にまた教えて貰いました。
    もう一度、今考えている目標にむかって頑張ります。
    頑張るので、先生応援してくれたら嬉しいです。
    またいつか、いい報告ができるように…!

  145. 前澤先生、ご無沙汰しています。山梨学院大学の今井です。山梨では、特に、大学コンソーシアムやまなしの高大連携部会において、たいへんお世話になりました。委員の皆さんがなかなか積極的に参加してくれない中、前澤先生にはいつも積極的に関わっていただき、たくさんのご意見をいただき感謝していました。FBの写真がお元気そうな表情なので、その内容を読んだ際はとてもショックでした。でも、このコメントの企画もそうですし、最後まで前澤先生らしさが伝わってきて、その点は嬉しく思っています。私も現在62歳になりました。還暦を過ぎ、本学における定年まで、今年も含めてあと5年となりました。前澤先生を見習って、いつまでも自分らしさを追求していきたいと思っています。本当にいろいろありがとうございました。

  146. 前澤さん、新設山梨県立大では私が在職4年間限定の老爺であったため短いお付き合いでしたが、学科運営面で大いに助けていただきありがとうございました。
    前澤さん、あなたは賢明にもややこしい学内事情には超然、並外れた行動力と熱意をひたすら学生の動機付けと実地指導に傾注されました。ここに寄せられた教え子たちのメッセージはいずれもその素晴らしい成果を示して感動的です。
    「Life Artist」を自称する人を他に知りませんが、前澤さんが69歳の若さで見事に「Art of  Life」をやり遂げてしまったことはこのサイトを見れば明らかです。唯一「ロバおじさん」(私なら「ロバ爺」にしますが)をやり残すのはそれほど残念ではないでしょう? きっと神は存在してて「前澤君、もういいだろう? もうこっちに来たまえ」と宣うたのでしょう。
    前澤さん、そう遠くない時にまたお会いします。

  147. 前澤さん
    大学の同窓でしたが卒業後はほとんどやりとりはありませんでしたね。
    最近再会し、共通の友人も多いことを知りました。
    これからまたお付き合いを、というときに、突然のお知らせ、驚愕いたしました。
    この書き込みが、間に合いますように。

  148. 中学で出会って以来、ずっと「テツ」と呼んできた。なんとなく賢そうな、カッコイイ名前だったからかも知れない。その賢さに多々刺激を受けた。
    思いつくまま書いてみる。
    中学の時初詣に行く途中、「ちあきなおみの喝采」に、ジャンルに関係なくいい歌だと評価。その感想にほっとした。洋楽にひかれていたころ、日本の歌をほめるのは恥ずかしかったからだ。
    高校の頃、銀座ジャンクに「猪俣毅」を聴きに行った。上野に唐十郎の「状況劇場」を観に行った。「アートアンサンブルオブシカゴ」のコンサートにも行った。全てテツが誘ってくれたもので、すごく楽しかった。
    少しだけ申し訳なかったのは、東大の2次試験の時迷惑をかけてしまったことかな。ただ東大に行っても、慶應に行っても、同じところに行き着いたと思うので、時効だと思ってほしい。
    長い間友達でいてくれてありがとう。話をするたび新鮮で楽しかった。

  149. ご無沙汰してます。
    大学生の時、私がやっていたバンドの曲を映画祭のオープニングに起用していただきありがとうございました。
    残念ながら映画祭は中止になってしまいましたが、、、
    前澤先生はマイナーな自分の音楽を
    評価してくれた数少ない人間です。
    感謝してます。
    近々一緒に歌でも作りましょう。

    学生時代、先生の迎合しない生き方、
    刺激的な言葉に勇気をもらいました。
    先生は僕にとって
    “虹色のスルメ”っていう感じです。
    うまく説明できませんがそんな感じです。

    先生とまた飯田グラウンド通り沿いの
    味匠で飲みたいです。
    まだボトルありますか?

  150. 前澤さん

    一新塾44期生の小林千鶴と申します。
    1度しか講義を受けることしか出来ていませんが、ロバおじさんの構想は、馬鹿馬鹿しいけどワクワクする!と思いました。人の魅力は一瞬でも輝いて、誰かの心に映像として残ることなんぢゃないかと思っています。ロバおじさんは、決定的に私の想像の中で消えることのないイメージになっています。

    作った作品を物々交換しながら生きていけたらいいなと思っていて、それを面白いと言ってくださったのは嬉しかったです。人生の中で、私が全力で走ったのは、過去のダンスミュージック制作だけでした。余力は十分あるはずなのに、未だ何も手をつけられずにいて、頭でっかちになりすぎて行動に移せていないのがもったいないなかったので、ちょいと気合を入れようと一新塾に参加しました。やっぱり、やりたいことをやりたいと言い続けていると、なぜだか支援者が現れますね。

    偉業は成し遂げられないかもしれませんが、生きているうちにできる限りのことをして、私も誰かの心に住めるようになりたいです。

    前澤さんのように。

    これからも、走れるだけ走り続けて、どうかワクワクさせてください!

    全く関係ないですけど、本当は宇宙に意識生命体がいて、肉体はただの箱なんではないかと思っています。
    心はクラウドで、誰かの箱を使っても、いつでもどこでも繋がれると思ってます。
    だから、また、いつでもお会いできると思ってます。
    すでに、こうしたサイトでも。

    どうぞ、ご自愛ください。

  151. 大変、ご無沙汰しております。
    前澤さんとの初めての出会いは、ハイビジョン試験放送が始まる以前に遡ります。歴史的なことは割愛しますが、当時、前澤さんは、まさにHDTVのエバンジェリストとして、映像業界紙などへの記事執筆や講演を受けられていて、そうした活動を通じて執筆された原稿の内容を出稿前に広報担当として確認したのが、私が前澤さんとお話しをするようになったきっかけでした。
    その後、前澤さんは私の上司となり、広報室長として、会社の周年イベントの企画プロデュース、記念誌の発行、映画制作支援事業など、多種多様な活動を積極的に進められ、その中の一つは、今では当たり前となったフィルムコミッションの設立へと繋がっていくことになります。
    会社を退社された後に、突然、(還暦の)パーティーのお誘いをいただき、新宿で直接お会いしてからは、もっぱら年賀状だけのご挨拶になってしまいました。
    ちょっとしたアイディアから始まり、それが大きなイベントに成長していく様を何度も目の当たりにし、その発想力とバイタリティには、いつも敬服させられていました。私にとって前澤さんは、ビジョナリーであり、アントレプレナーです。
    仕事では、いろいろと振り回されることもあり大変でしたが、一番充実した時を過ごせたことに、あらためて感謝申し上げます。
    ありがとうございました。

  152. こんにちは。はじめまして。仙台地域科31.33期の菊池信恵です。
    今私は激しく後悔しています。
    一新塾では地域科でしたので、前沢先生にお会いする機会はありませんでしたが、授業でのテキストやFacebookなどを通して興味を唆る方でしたので、
    お友達申請したり、メッセージ送るなり、お近づきになる努力をすべきでした。ですが、会ってもいないのにとか、
    図々しいと思われるのでは、といった保身から前沢先生に近づくことをしなかったのは、今となっては大きなチャンスを逃してしまったと認めざるを得ません。
    先生と親しく言葉を交わすようになっていたらどのような話をしていたか?と妄想しますが、私の浅く狭い考えでは思いもよらぬ知識体験想像理想着目方法逆転等等を語ってくださるだろうなと。
    あまりに残念なので、これからは誰からもどう思われるかなど気にしないで、ただ私が繋がりたい気持ちに忠実に行動することにします。実際にお会いする時は宜しく!です。

  153. 後半はFC設立以降の話。

    2001年に私が世界一周映画製作プロジェクト“を計画し、資金不足から前澤さんの会社からカメラを提供して貰えないかと相談を持ちかけた。すると細かいことは尋ねず、二つ返事でやってみると言われた。私も前澤さんに劣らず世界数十カ国を旅したバックパッカーだった。そして映像の人材育成は、技術教育以前に人生体験が大切であることを知っており、わざわざ企画意図を説明する必要も無い。そして目的に価値があれると信じれば突き進む。二人は互いに似たような性格である。

    暫くして本社に一緒に出向いてくれと言われ、上司と思しき人から面接を受けた。おひと方が「前澤、この企画に責任を持てるか?」と発せられた。前澤さんは一瞬キョトンとされたが、「持ちます」と即答してくれた。その時相手の方達がかすかに笑みを浮かべられた。そのことで社内で前澤さんが如何に変わり者で、如何に愛されているかを伺い知ることが出来た。前澤さんに尽力で高級デジタルビデオカメラ2台が調達出来た。そして、撮影の後フィルム化し35mm作品として完成させ試写を行った。前澤さんは正直なので渋い顔をされた。何せ映画など作った事のない連中の監督した作品だから当然だ。しかし、あれから20年。その時参加した若者は、現角川系スタジオの取締役、アメリカンショートショート映画祭のプロデューサー、小作品ながら拘った映画の監督、文楽など日本の伝統芸能を映像として記録している者、そして今回のコロナ対応において(株)YouTubeで陣頭指揮をとっている幹部にまで育った。前澤さんの厚意はその後脈々と生きてますよと言いたい。

    更にその後、前澤さんは会社を辞め教育者の道を歩まれ地域振興に注力された。私も各所で似たようなことを行っていたため山梨に呼んで頂き講演をした。そこで過去の実績をおごること無く地域の人と付き合う前澤さんの姿を目撃した。地域貢献は当人の人柄と、現地の人と腹を割ってはなすことの大切さを知る。

    前澤さんは常に自分の信念に照らし合わせて行動する自由人だと思う。それを組織に居ながら平然とやってしまうのは誰にでも真似出来るものではない。前澤イズム、色々学ばせて貰った。これまでの色々な気遣いと対応、本当に有り難うございました。

    自由人 古澤敏文

  154. 前澤さん✨

    恐らく…お仕事で一番長い期間、長い時間を過ごしたひとりではないかと思っております。
    私は1988年に新入社員でソニーPCLに入社し、HD推進部HD(後にハイビジョン事業部)に配属され、前澤さんの直属の部下になり、前澤さんが退職される2002年までの14年間、部署が異動になろうが、仕事内容が変わろうが腐れ縁(笑)ずっと一緒でしたね。
    なにを話したらいいのか…あまりに多岐に渡りすぎて悩ましい。

    ハイビジョン黎明期にソニーPCLに入社した私。当時は、まだハイビジョンとは言わずHD。ソニー本社にもHDと名がつく部署がなく、ソニーPCLとNHKだけだったと聞いた記憶があります(NHKはハイビジョン)。映画は観るのは好きだったけれど、映像のことは何にも知らない私がハイビジョンの部署に配属されて最新技術の発展とともに成長してきたような気がします。前澤さんとは部署が変わっても一緒だったし、最終的には広報室を立ち上げられて、それから私は広報の人となった訳ですが。
    1996年初め、前澤さんがハイビジョンの部署を出て、新しくできる部署に異動するらしいとの話が出てきた。「ふーん、そうなんだ」と思いつつ、前澤さんのサポート出来るのって、私しかいないんじゃないの?とも思っていた自分がいて、口には出さなかったけどね。
    だって前澤さんはある意味一匹狼。いろいろな面で社内でもかなりの異端児!やっぱり私がいないとダメでしょ的な感じ。そうしたら…主に映像ソフト制作や上映システム導入の企画営業をメインとしたメディア推進室に、やっぱり一緒に異動になった。後で前澤さんに聞いた話、何人かの女子社員に打診したところ一緒にやっても良いと答えたのが私だけだったとのことでした。やっぱりね(笑)
    そうして1年後、人員入れ替えがあり、CS推進部となり、最終的には広報室にと落ち着いた。もちろん広報室長は前澤さん。そしてやはり私も広報室。2002年に前澤さんが退職されるまで。

    ハイビジョン事業部時代には、会社の創立40周年記念イベントとして、有楽町の朝日ホールで「黒澤明監督と若者とたちとの対話」というイベントを主催。雑誌「ぴあ」で参加者を募ると黒澤監督への情熱と愛を語る夥しい数の応募ハガキが殺到し、かなりの倍率となった記憶。“世界のクロサワ” 黒澤明監督、ヴィム・ヴェンダース監督等々巨匠の方々とのお仕事、フランシス・F・コッポラ監督がご家族でいらっしゃったり…etc…。

    広報室時代には、私の最初のミッションはコーポレートサイトを作ることだったのですが、ウェブマスターとして、業者さんとのディレクションからかと思いきや、まさかのHTMLのマスターを課せられ、本当にタグ打ちから自分で作るところからだったという驚き。また、広報室でありながら、お客様相談室を開設し、フリーダイヤル設置等など。
    そして忘れてはならないのが、まだ日本においてのフィルムコミッションの立ち上げに尽力したこと。1999年に、ソニーPCLからは前澤さんと私、ユー・スタッフの君島さん、フィルム・ピープルズ・ネットワークの御影さんなど数人で毎月ミーティングを行い、産官学の有識者の方々の選定、郵政省、経産省、文部省、国土交通省などにも足を運んで準備し、2000年に「FC設立研究会」発足。私たちは“世話人”として事務局を担い、1年間毎月、国土交通省にてフィルムコミッション設立における会合を実施、翌2001年8月、パシフィコ横浜に於いて「横浜宣言」をもって、「全国フィルム・コミッション連絡協議会」が発足。
    その夏、前澤さんと米国ワシントンD.C.でのAFCIのFundamentals / Cineposiumに参加。会社側に出張扱いでと画策するも玉砕!(苦笑)有給を取って参加。これがとっても素敵な経験でした。

    前澤さんと一緒にお仕事をしていた時が一番楽しい時代でした。既存の業務に捕らわれず、映像全体に貢献できることをたくさん経験させていただきました。撮影現場を経験させていただいたり、多くの映画関係者の方々との交流もかけがえのない時間です。
    会社外では、前澤さんの映像新聞での連載100回記念パーティーのお手伝いや、一新塾の会合にも何度か連れて行っていただいたことを思い出しました。シャプラニールも一度くらいお伺いしたかもしれないです。

    前澤さんは覚えていないかもしれないですが、私が30歳くらいの頃に「松永さん、早く結婚してくださいよ。僕、仲人やりたいんだけど!」と言われたことがありました。残念ながら実現しませんでした、というよりも結婚がかなり後になりましたのでね。
    2016年の年の瀬、前澤さんが急性骨髄性白血病で入院されたいた際に、夫婦で慶応病院にお見舞いに伺いました。もちろん主人は前澤さんとは初対面。その時の主人の前澤さんに対する印象は「人を色眼鏡で見ない方」だったそうです。人間の大きさを感じたとのこと。そうなんですよね。年齢を重ねて、優しさと共にさらにスケール感増しておりました。

    それから2ヶ月後、私も癌がみつかり緊急入院・手術!
    闘病中とは言わない、治療中。毎日笑顔で過ごすと楽しいし、気分も晴れる。
    前澤さんのような壮大なプロデュースには及びませんが、これも自己プロデュース。
    少しは受け継いでるかな。

    前澤さんとご一緒した時間は私の大切な宝物。
    きちんと言葉にしたことがありませんでしたが、たくさんの貴重な経験と時間をありがとうございました。私の青春を返せー!とは言いません(笑)「もぉー!」と思ったりすることもありましたが、本当に楽しかった。この思いはきっとPCLでは私だけです!
    自由人と例えられる前澤さんの姿に多くの人は羨ましく、憧れていたことでしょう。
    前澤さんはまだまだ現役。これからも皆が驚くようなプロデュースを!

  155. ふっと思い浮かんだ
    きっと(絶対)前澤さんは覚えていないであろうエピソード。

    ①前澤さんがハイビジョン営業の時代。
      会社の電話が鳴る。
      「ソニーPCL でございます。」
      「…」
      「もしもし?」
      「はぁはぁはぁ」
      「ん?もしもし?」
      「はぁはぁはぁ」
      「うっ…(-_-;)」
      「はぁはぁはぁ…」 

      「いやぁ~変態電話がかかってきたー」と騒ぐ私。
       。。。
      その実態は…前澤さんが目黒の坂道を登っている最中に携帯のボタンがあたって、知らないうちに電話をかけていたらしい。
      もちろん前澤さんは気づかずに、ずーっと荒い息づかいだけが聞こえてくるので、電話切っちゃいました。
      あの時はマジにびっくりしました。

    ②広報室時代
      「今日はいまから打ち合わせで外出します。」
      と言って、前澤さんと私、時間差で会社を出る。
      渋谷駅で下車。
      向かう先は…いまはなきスペイン坂の映画館・シネマライズ渋谷。
      そうです。
      前澤さんと私、『ムトゥ 踊るマハラジャ』を観たかったんです。はい。
      もう時効だからいいよね。
      堂々、平日の昼間!
      まぁ市場調査でもある。
      映画鑑賞後、まだ陽の高いうちからビール飲みながら映画談義。
      そんなこともありました。
      いま思うとフツーに外出でよかったような気がする。
      密会、密会!って騒いでいたような(はしゃいでいたような)気がするのは私だけかな。

    ③AFCIのFundamentalsで米国滞在中
      ワシントンD.C.のホワイトハウス近くのホテルに滞在(Fundamentalsも同じホテル内で開催)。
      期間は1週間程だと記憶。
      その半ば頃に、前澤さんは一時、カナダに別件で移動する予定があり、またワシントンD.C.に戻ってくるというスケジュール。
      前澤さん「一度、ホテルチェックアウトするから荷物預かっててもらっていいですか?」
      私   「いいですよ~」
      前澤さん「最終日に戻ってくるので、泊めてもらってもいいですか?」
      私   「いいですよ~」
      私   「…ん?あれ?いやダメですよ!」
      前澤さん「荷物も置いてあるし、部屋の片隅で大丈夫。気にしないし。」
      私   「あの…いや私が気にするわ!一応嫁入り前です、私!」
      前澤さん「そうなの?」 
      
      …っておいおい!そういうことじゃなくて(笑)
      前澤さん、スーツケース預けと同じ感覚だったようで、改めて1泊分お部屋取ってもらいました。
      なんか笑えるエピソード。お互いあまり考えてない。
      
    ふと思い出したこと。
    まだまだいっぱいあるんだろうけど、頭をよぎったので投稿。
    こんなゆる~い投稿もありですよね、前澤さん♪

  156. Dear Friend Maesawa, Life goes on, most of the time slowly. Sometimes we are lucky enough to meet someone who is full of the very essence and energy of Life. You! You inspire me, from all our film meetings, Busan, Japan… Thank you! I will keep you alive in memory and soul.

  157. 前澤先生、いつもありがとうございます。
    山梨県南アルプス市の「ほったらかし畑」チームの藤本です。

    前澤先生と初めてお会いしたのは、東京都の田町にある一新塾の教室でした。
    地元で、どんどん増えていくほったらかしの畑を給食の食材地に何とかしたい!と、チームを立ち上げた後、活動について、そして卒塾の時にアドバイスを頂きました。

    その時に、森嶋さんから配布して頂いた、先生の自己紹介シート、驚きました。
    A4用紙1枚で、前澤先生の生まれてから今日までの物語が、すべて書いてありました。
    私も真似させていただきました。

    その後は、先生には富士川町のいちやなぎ、甲府市のレストランボンマルシェで、私たち百姓が生み出している、食べ物以外の大切な恵みを、多くの人に理解してもらうため、映画撮影の場所の誘致や、撮影するスタッフを応援することで、地元を元気にすることができ、その結果、恵みをわかってもらえる、そんな、気づきを頂きました。

    「畑は大事です、土は大事ですよ!」という言葉、今でも、覚えています。

    これからも、地元・ふるさと山梨の豊かな大地を、次の世代につないでいく活動を続けていきます。
    前澤先生、また、山梨ワインで乾杯したいです。
    一新塾20期「ほったらかし畑」チーム
    藤本

  158. 前澤さん、無念で無念でなりません。あと一度でいいから一献やりたかったです。どうぞやすらかにお休みください。
     きのう6月30日10:49に前澤さんご本人から電話がありました。「最後のことばにライターズ関係者からの書き込みがないんだよ。わたしがこの状態なの伝わってないんじゃないかな。たぶん今週もたないと思うし…書いてもらっても読めなくなるだろうから…きょうあすにでも書いて欲しいんだよね」と穏やかな声音。直感的に最後のお話になると思い、動転を抑えつつ、これまでのお付き合いに対する感謝を伝え関係者への連絡を約束しました。
     恐らく四半世紀前、ライターズネットワークで出逢いました。昼間も夜もお話が面白くよくお付き合いいただきました。ライターズ仲間といった渋谷のカラオケでGLAYの『口唇』を熱唱する姿をいまも思い起こすことができます。山梨県立大では「辞書編集の現在と未来」と題して講義させていただきました。慶応病院を見舞ったときには独特の祭壇をまえに長いあいだ話をしましたね。快気宴パーティーでの完全復活では〈神はいる〉と思ったものです。本当にたいへんお世話になりました。有り難うございました。
     きょう7月1日の午前中、このように記した投稿が掲載されていないことが判明し呆然としていたところ、訃報が飛びこんできました。前澤さん、楽しい時間を有り難うございました。合掌。 三省堂辞書出版部 寺本 衛

  159. 前澤哲爾先生、 その後久しくご無沙汰しておりましたが、ご大病を患っていらっしゃるとのお知らせをいただき、驚愕しております。私は山梨県立大学国際政策学部長に赴任する直前、教員候補の先生方の抱負や所信表明の文章を読ませていただきました。多くの先生方はそれぞれご自分の専攻・担当分野について述べられていたのは当然ですが、前澤先生の文章はそれらに加えて地域貢献を重視し、山梨県庁や県内にどのくらいの数を就職させる、というようなことが書いてあり、具体的で堅実な着想に大きな感銘を受けたことをよく覚えております。
    先生は地域貢献・体験を学生たちに学習させるため、フィルムコミッションの活動を大々的に展開されました。学生たちは先生の薫陶や刺激を受けて、それぞれの認識を大きく発展させ、地域に対する理解を大いに深めました。先生の活動や指導によって山梨県内での県立大の認知度・評価が大いに高まりました。フィルムコミッション等の活動は、山梨県内に留まるのみならず、文字通り「世界を股にかけた」大事業であることは、間もなく大学内ばかりではなく世間周知の事実となったのです。
    前澤先生はいつも前向きで積極的情熱的で、学内の会議などでも常に正論を堂々と率直に述べられ、大学の運営に良き方向性を与えてくださいました。こうして、県立大学の地域への貢献・寄与は、まさに前澤先生の多大なご指導の下で果たされました。もとより、多彩異能な先生のことですから、ご自身には何でもないことだったかも知れません。しかし、平凡な私には真似しようと思ってもできることではなく、本当に敬服しております。また、ご令兄が私の講義をお聴きになったこともあるとのことも伺いご縁を感じたこともありました。また、趣向の深い会合にお招きいただいて、光栄に思ったこともございます。
    「存命中にお別れの言葉を」とは、いかにも前澤先生らしいご発想で感銘しました。ご自身はすでに「達観」の境地にあると思われますが、前澤先生、どうか最後の最後まで頑張ってください。追悼文の予行みたいになり、何か悲しくなりましたのでこの辺で止めにします。
    久保田文次

  160. 前澤さんが、私が承認ボタンを押さないとアップされませんから早めに書いてくださいと電話でおっしゃる。ブログの仕組みを私は知らないので、そういうものかとは思うけれど、やはり妙である。お別れの言葉を生きているその当人に宛てて書いてそれがパソコンで読まれ、わかった、じゃあ、これでさようならだね、と承認されるのが、最後のやり取りになるのだろうか。
    コロナの中でどこの病院も面会、見舞いは許されていないので、会いには行けない。まだ電話は出来るかもしれないけれど、余命は何か月ではなく何週間という単位かもしれないというのだから、こちらではタイミングが計れない。どうしたものか、今も逡巡したままである。
    前澤さんと親しくなったのは、プサン映画祭だった。第一回が1996年で、私は「眠る男」を持って参加していた。プサンにはその後も度々行っていて、審査員として呼ばれたこともあったけれど、主には映画祭ディレクターのパク・クァンスさんが招聘してくれたからだ。招聘とはいっても友人として声をかけてくださっていただけのことで、格別なにかをしなくてはいけないこともなかった。そのうちにプサンでアジア・フィルム・コミッションが立ち上がって、そこで前澤さんと何度も会うようになった。言わずもがな、日本でフィルム・コミッションを立ち上げた当の本人である。
    前澤さんは私と同じ群馬の生まれで、そちらにも家があるとおっしゃっていた。同郷のよしみもあったからだろうか、あれこれと話が弾んだ。「眠る男」は群馬県が発意して、製作費の全額を税で賄うという前代未聞の取り組みだった。地域、地方から映画を考える。そんな意図も前澤さんと共有できた。
    前澤さんとは以前、ソニーPCLでお目にかかっている。デジタルカメラからのフィルムレコーディングがまだ上手くいっていないときで、なにか技術指導のようなことを仰ぎに行ったのではなかったかと思う。前澤さんがそこからどういう経緯でフィルム・コミッションを担うことになったのか、私はよくは知らない。知らなくてもストンと納得してしまう、そういう不思議なところが前澤さんにはあった。その後に山梨大学へ移られたときも、ああ、そう、と意外な感じはしなかった。目的を果たしてというか、なにかをやり遂げるとためらいなく次のステージへ移っていく。その転身の仕方に私利私欲がない。実務にもたけた自由人である。
    前澤さんに誘われてウラジオストックの映画祭に一週間あまり行ったことがある。日本の中古自動車がたくさん輸入されているときで、ウラジオストックの街中を走っていると日本語の書かれたトラックやバンとよく行違う。さて、ここはどこかと一瞬、分からなくなる。それが前澤さんご自身の印象と重なった。どこかにファンタジーを隠し持っているのだろう。
    なにしろ今回いただいた電話も、開口一番、前澤は天国に行くことになりました、だった。リアリズムだけでは考えにくいことだ。病状は深刻なのに、話すトーンは明るい。
    前澤さんのこのブログを開いたら、前橋でロバを飼って、人がいなくなってしまった中心市街地をロバおじさんになって回りたい、とあった。納得である。小さいころ、ロバのパン屋さんが私の家の近くまで回ってきた。家は市街地からは離れていたので、すぐに水たまりが出来そうな未舗装の路地である。そこにロバに引かれたオレンジ色の大きなワゴンが止まっている。その光景は今となっては、まるまるファンタジーである。
    前橋ではないかもしれないけれど、向こうに行って前澤さんはロバを引いているに違いない。よく似合うだろう。
    前澤さん、私とお付き合いしてくださって、ありがとう。
                      2020/7/1     小栗康平

  161. 前澤様 たいへんごぶさたしています。お目にかかったのは、ご活躍が始まった1980年代、お互い30歳代の前半でした。私は新聞社勤めで、人を介してご紹介いただきました。自分自身という素材を彫琢し続けた貴兄は、前澤哲爾という豊かな作品に自分を創り上げられたのですね。すごいことです。その作品のディテールを、記録として残すドキュメンタリーアートの精神と実行力にも、深甚なる敬意を表させていただきます。

  162. 中学で出会って以来ずっと「テツ」と呼んできた。何となく賢そうな、カッコイイ名前だったからかも知れない。その賢さに多々刺激を受けた。中学の時に初詣に行く途中、「ちあきなおみの喝采」はジャンルに関係なくいい歌だと評価。その感想を聞きほっとした。洋楽にひかれていたころ、日本の歌を褒めるのは恥ずかしいと思っていたからだ。高校の時、銀座ジャンクに「猪俣毅」を聴きに行った。上野に唐十郎の「状況劇場」を観に行った。「アートアンサンブルオブシカゴ」のコンサートにも行った。すべてテツが誘ってくれたものですごく楽しかった。少しだけ申し訳なかったのが、東大の二次試験の時に迷惑をかけてしまったことかな。ただ東大に行っても慶應に行っても、同じところに行き着いたと思うので時効だと思ってほしい。長い間友達でいてくれてありがとう。話をするたびに新鮮で楽しかった。

  163. 前澤さん
    Facebookでもさんざん嘆いてきたけど、一新塾の森嶋さんからもメッセージ依頼がきたので、やっぱりひとことコメントを書かせていただきます
    もう20年以上になるけど、やっぱり前澤さんとは、一新塾の思い出が強いかな。。
    一番初期の段階からお付き合いして、四半世紀になるなんて、思ってもみなかったよ
    その後、ライターズネットワークでもお付き合いいただき、有難うございました
    何か企画があると、やっぱり前澤さんの顔を思い浮かべますよ
    慶応病院に入院したとき、お見舞いに突然お伺いして、すみませんでした
    その後、皆を集めての快気祝いで、もうすっかり元気になったと思っていて、だからこそ、今回の連絡はあまりにつらいものでした
    こんなことなら、年1回の集まりも、強行しときゃよかったよ!
    あんなこと言ったけど、また復活しちゃったよって、言葉を心から待ってます
    一新塾&ライターズ&様々な飲み会でご一緒した、じんから心より愛をこめて

  164. 41期の新垣と申します。前澤先生が卒塾式にて発表された方への評価をされていました。温かみのあるポイントをついたお言葉が印象的でした。前澤先生の生き方や教えそれから一新塾での学びは一生忘れません。そのことを胸にこれからも故郷・沖縄の久米島の為に全力で頑張ります。本当にありがとうございました。

  165. 一新塾第39期/41期OB・OGコースで前澤さんとお伺いしました加藤孝幸と申します。
    地域の結び付きコミュニケーションのICT化を目指した「えどけいしょん活動」で一新塾の扉を叩きました。
    まだ当時(2016年)は、地域の人的ネットワークづくり「各論」メインで、全体のICT化についての知見をお持ちの方が少なかったことを思い出します。「お前の言っている事は、よく判らない!!」本当にしょっちゅう叩かれ馬鹿にされ、理解されない事がこんなに悔しいのか!といつも心に刻んでいたことを思い出します。
    しかしそんな中、「よく判らないけど、こういう新しい事へのチャレンジは応援したい」というご講評をプロジェクト発表で戴き、挫けそうになる心を立て直し進む事が出来ました。
    41期OB・OGコース以降も、前澤さんのご活動の結晶である、日本各地の現地ロケの広がりを目の当たりにし、励みにする事が出来ました。
    前澤さんの足跡と一新塾時代のお言葉と言う心の支えがあったからこそ、挫ける事なくReadyforの資金調達成功の実績に繋げました。そこから金融機関からの資金調達、2018年にはICT実機製作、1年半に及ぶ複数地区での実証実験を経て、東京都中小企業振興公社の推奨商品に選出され、現在「こども食堂を中心とした新型コロナ感染症と共生する地域全体の再活性化・見守り事業」として産声を上げようとするまでに至りました。
    何べんも絶望し、のたうち回る度に、前澤さんのクールなコメントと、実はその裏にある絶妙な工夫と知恵に都度感銘し、これを目標とし真似して頑張る事で、諦め投げ出さずに今日まで来る事が出来たと、今改めて思います。
    死から眼をそらさず、ユーモアと意気越しを失わないで最期まで進まれる後ろ姿を示して下さり、心より感謝申し上げます。
    盛者必衰の理の通り、いつかはすべての生き物、地球や銀河系、宇宙ですら死んでいく事。気付かせて頂きました。
    何もお返しができないままとなりそうですが、少しでも地域や身の周りにこの前澤さんのお心を伝えていきます。
    量子論的には、人間が観測した事により物理現象が確定される事が判って来たようです。
    一人一人が宇宙の主であり「Gods」であるという事と、実は同じじゃないのかなぁ・・・と感じました。
    もしかしたら、我々を構成する素粒子の中に折りたたまれている、11次元の現象の上位に行くだけなのかもしれませんね。
    本当に心より感謝申し上げます。
    私たちも、精一杯やった後ほど、前澤さんの許にお伺いしますので厄介でしょうが・・・いろいろと報告させてください。
    御心の安らかにあらん事を。ご自愛ください。

  166. 前澤さん、新設山梨県立大では私が在職4年間限定の老人であったため短いお付き合いでしたが、学科運営面で大いに助けていただきありがとうございました。あなたは賢明にも非生産的な学内事情には超然、並外れた行動力と情熱をひたすら学生たちの動機付けと実地指導に傾注されました。ここに寄せられた教え子たちのメッセージはいずれもその素晴らしい成果を示して感動的です。
    「Life Artist」を自称する人を私は他に知りませんが、前澤さんが69歳の若さで見事に「Art of  Life」をやり遂げてしまったことはこのサイトを見れば明らかです。唯一「ロバおじさん」(私なら「ロバ爺」にしますが)をやり残すのはそれほど残念なことではないでしょう? だから、きっと神は存在していて「前澤君、君は十分やったよ。もうこっちに来たまえ」と宣うたのでしょう。
    前澤さん、そう遠くない時にまたお会いします。
    浜崎紘一

  167. 前澤先生ご無沙汰しております。県大4期生(2008年入学)の谷口誓です。メッセージを作成しているときに亡くなられたとお聞きして無念の思いでいっぱいです。
    このメッセージを考えながら、YDPで山梨県中を巡ったり、大学の広報企画を立てたりで奔走した大学生活を懐かしく振り返っています。世界の現地情報を取材する企画のWRJを企画として大成させられなかったことで、自分の未熟さや人を巻き込む難しさを痛感しましたが、今となっては苦い経験も良い思い出です。前澤先生には在学中も卒業後も色々と相談に乗っていただいて感謝の気持ちでいっぱいです。
    私は2016年から商工会という組織で、中小企業の経営支援と地域振興事業の企画などをしています。昨年(2019年)の4月からは南部町商工会に異動して、毎日往復100km(!)を通勤しています。商工会での仕事も5年目を迎えて、自分にできる領域も増えて楽しくなってきました。ここ最近は、新型コロナウイルス感染症の影響で世間は自粛自粛と嫌気が差しますが、こんなときだからこそ前を見て、遊び心を持って面白い企画を立てていきたいと思っております。
    卒業後ふらふらとしておりましたが、群馬県太田市出身の女性と8月に結婚することになりました。遅ればせながら報告です。
    ご冥福をお祈りします。

  168. 前澤先生!!!!
    一新塾の卒塾式の時、「ホームステイ受け入れプロジェクトは、もう名前なんてどうでもいい、そのまま、ずっと突き進んでください」とのお言葉をいただきました。その言葉を胸に、今も、同じ気持ちでいます。前澤先生の生き方、特に、誰でも、私にも必ず起こる、死の迎え方にこのたびこのように触れることができたことに、心より感謝します。前澤先生、ありがとうございました。

  169. 余裕あるFacebookだった為、久しぶりに、審査員の依頼でもと思い、メールを書いたところ、発信していませんでした。
    訃報を受け取り、メール届かず良かったです。
    また、映画の未来を語ってください。

    では、また。

  170. 前澤先生、一新塾でお世話になりました、矢部功泰と申します。
    私は埼玉県さいたま市で自分の志を果たそうと、紙芝居をやっています。
    一新塾で、卒業プレゼンの際に前澤先生から、お褒めのお言葉を頂きまして、すごく自信になったのを覚えています。
    あの言葉がなければ、私が今も活動を続けていることはなかったと思います。
    自分の人生の中で大切にしなければならないものを、今も大切に出来ていることは自分でもすごい自信になっています。
    前澤先生から教えていただいたことをこれからも大事に活動を続けていきます。
    前澤先生に出会えてよかったです、ありがとうございました。

  171. 前澤先生

    先刻、県大時代の学友から先生のことを知らされました。

    記憶にあるエネルギーに盈ちた先生の姿からは溝の大きい事実に実感が涌きません。

    振り返れば先生の講義や活動はいつも新鮮で刺激的で、転科して前澤ゼミに入れて頂こうかと考えていたほどです(私は総政でした)。結局実行には移せず終いでしたが。
    (しかしそのお陰で学べたことが多々あることをゼミ恩師の名誉の為にも添えさせて頂きます。)

    そしてこのメッセージも先生の目には届かず終いになってしまいますが哀悼の意と残された者の気持ちの整理として書き留めさせて下さい。

    卒業して10年余、世間で、世界で、ことある度に自己の “メディアリテラシー” を省察しています。その言葉・概念を初めて知り、学ばせて頂いたのが先生の講義でした。
    正に今、今日この日も、メディア -の在り方/-との関わり方 について大きく問われるべきことが起き続けています。
    時代の変遷を前澤先生はどのように見つめ、どのように思考していたのでしょうか。
    もしもまたお会いすることが叶うのであれば是非お話したいこととして頭を過りました。

    これからも先生から学んだことは人生において活き続け、事毎に記憶が甦っては先生もまた私の中に生き続けます。

    前澤先生、多くの楽しく学び豊かな経験をありがとうございました。

    追伸 在学中、友人らから呼ばれるニックネームで呼んで下さっていたことは斬新な出来事でした。それまで目上の年の離れた方からそう呼ばれたことが私にはなかったので。自分の中にあった「教員と学生」「年輩者と若年者」という関係の常識を良い意味で覆された気分で内心嬉しかったことを今でも覚えています。

  172. 前澤さん!
    森嶋さんからのメールで、危篤と知りましたが、まさかこんなに急に…。悲し過ぎますが、私たちにいろいろなものを残してくれました。ありがとうございました。
    一新塾第一期が終わる頃に、こんなユニークなとんがったメンバーがこのまま解散してしまうなんてあまりにも寂しいことと思い、同窓会を提案しました。前澤さんに相談したら実現してくれそうと思い、相談、即、会の名前は「一新塾一期一会会」、1が三つだからトリプルワンを通称とする。年会費は1万円で先に集める。幹事役は言い出しっぺの私にするように、ということで、本当に一瞬にして形が決まりました。その後、トリプルワンは啓発された市民を作るという大前さんの理念を市民活動として継続しようと勉強会や視察旅行などを実施しました。並行して、自分は杉並病の被害者となり環境問題の活動にも入っていきましたが、活動をしていくことの原点は、前澤さんから学んだように思います。
    快癒されたものと思っていましたので、この度の逝去の報に接し、最初とてもショッキングでしたが、きっと前澤さんは最期を受け入れて逝かれたのでしょう。次第に平安な気持ちになってきました。きっと、人生をエネルギッシュに生き切ったのではないかと思います。多くの人を啓発し影響力を与えた前澤さんの人生に、心より敬意を表します。心よりご冥福をお祈りいたします。

  173. 一新塾の25期の島崎です。
    昨日、一新塾の森嶋さんからメールを頂きました。

    心より、ご冥福をお祈りいたします。
    今なら大きな声で泣けることが出来ます。

    一新塾で学んだことは、私の人生の大切な一ページです。

    ありがとうございました!

  174. 昨日訃報を伺いました。心よりお悔やみ申し上げます。
    先輩の前澤さんとはお互い慶應の学生時代からの長いおつきあいでした。前澤さんを中心とした学生による自主映画制作/就職後SONYグループでのハイビジョンの開発と展開/日本の地域振興に貢献するフィルムコミッションの立ち上げと活動/ご自身の仕事経験を活かせる大学教師という新たな活動とライフスタイル/そしてふるさとでの誰もまだ見ぬロマンの実現への準備……。この40数年間、前澤さんは私から見れば常に先行する“活動家”でした。またパートナーの真理子さんとは家事と育児を完璧に共有され、とくにお子さんが赤ちゃんから小学生くらいまでは、ご自身のプライベートな時間とある場合は仕事すら切り詰める、まさに先行的な“イクメン”の実践者でした。
    前澤さんのあの熱い語りくち、そして皮肉をきかせつつも微笑を絶やさない語りくち、今でもすぐそこから聞こえてきそうです。

  175. 一新塾41期の鈴木眞澄です。
    最初は、人違いかと思いだったらいいと思いました。私にとっては突然の出来事で言葉を失います。
    一新塾では、未熟な私に励ましのお言葉をいただき感謝しております。前澤先生のお言葉は一生忘れません、
    本当に有難うございました。

  176. 前澤、昨日東京に住む末弟から君の訃報を聞いた。今日の沖縄タイムスにも載っていたゾ。
    1970年に静大に入学、その頃は政治の季節だから何らの集会で君に会ってるんだろうけど、記憶がない。72年に君が映研再建の際、ビラを配っていて当方も即座に入会したのだけど、それが君の最初の記憶だ。ビラ配りの際、君は<アナアケスト歓迎>と書いていて、入学したての女子学生から、アナーキストは知ってるんですが、<アナアケスト>って何ですかと聞かれて困ってしまったって云ってたのをのを覚えている。ユーモアが効きすぎたんだなぁ。
    君と知り合ったのが72年だと、夏休みに君が石垣島の我が家へ遊びに来たのは、沖縄が再び沖縄県になった後か、パスポートをとらずに来たってことになるな、記憶が錯綜としている。
    君の独特な角張った字体の手紙が出てきた。日付は1974/06/09で、浪人中の館林から。勉強ばかりでなくしょっちゅう映画を観ていて、バスター・キートンから長谷部安春まで13本、全て短評を記してあった。
    受験が終わった後、静岡の当方の下宿へ遊びに来てたな。その下宿、こちらも含め留年組が何名もいて、その日はみんな部屋にいたんだろう、君が慶応に合格したことを、前澤違うだろう、君のイメージからすれば早稲田だろう、と笑い合っていた。
    次の記憶は、2000年か、2001年か。全国レベルでフィルム・コミッションを組織する、沖縄にも作る、その協力方を民間にも依頼する、その核となる人々に会って話をする。移動の車の中で、君は、例えばハリウッドなどは東南アジアで映画を撮った後機材一切をそこに残してゆく、その機材がその地域の町おこしの一環となることを熱く語っていた。

    昨日は、Art Ensemble Of Chicago のメンバーの一人Lester BowieのThe Great Pretenderを聴き、MozartのRequiemを聴き、浅川マキをチャンプル-に聴いていた。
    遙かなる前澤へ、はるかに沖縄から。

  177. 2002年~2004年フィルムコミッション連絡協議会で一緒に活動させていただいた辻川です。2001年頃、日本映画テレビ技術協会の機関誌で前澤さんの日本でもフィルムコミッションを始めることにしたという記事を読み、2002年にS社を退職したのを機会に連絡協議会に参加させていただきました。個人参加だったこともあり、私自身はフィルムコミッションに大した貢献はできませんでしたが、活動に参加したことで、沢山の刺激を受け、その後の人生を好奇心を持って過ごすことができました。北海道、沖縄、群馬、神戸、福岡など地方大会にもご一緒させていただき、沢山の素敵な方たちともお会いすることができました。前澤さん、どうもありがとうございました。天国でもどうか面白いこと見つけて下さい。

  178. 近藤聡@都立高校教員です。前澤哲爾さんから電話を頂戴したのが、1週間前の28日でした。まさか、こんなに急に、というのが率直な思いです。
    前澤さんに「君、遅いよ」と言われそうですが、メッセージを書き込むという約束を果たしたいと思います。
    2001年9月9日から、前澤さんも含め、様々な業種の20数名の方で私的な「勉強会」を始めました。メディアリテラシーを中心とした会です。
    社会全体で、メディア、メディアリテラシーへの関心が高まった1900年代末から2000年にかけ、様々な研究会の立ち上げや会合が開かれました。
    参加者としてそこに出向くと、前澤さんと何度かお会いし、面識ができました。ある時、東京都主催の会合がありました。その後の懇親会が始まった時のことです。
    前澤さんから私のところに来られ、「これで帰ります」というのです。そのココロは、今日は見切った、内容も顔ぶれも今後につなげる必要なし、というわけです。
    私は「目からウロコ!」でした(笑)。会合、研究会は、こういう人が、今後もつながりたいと思う集まりであって欲しいと思いました。
    その後、私が心を惹かれた方たちに個人的に声をかけてお願いし、上記の「勉強会」を立ち上げることができました。
    私の背中を押したのは、前澤さんなのです。ご本人に言う機会がありませんでした。
    心より、ご冥福をお祈り申し上げます。

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