「紫禁城も秦王宮もある横店影視城」~映画に関する腑に落ちる話(7)

2001年フィルム・コミッションの仕事を始めてから、海外の撮影環境について独自に調査を始めた。世界中の映画振興機関、撮影所、オープンセット、プロダクションなどを廻ってきた。その中で、最も刺激的なオープンセットが、中国にあった。 中国では、北京、上海、西安、長春と主な撮影所に伺ったが、かつての国営施設は全て老朽化している。度々ジオラマになった将来計画について説明を受けるのだが、実現したとは思えない。民間では「上海影視楽園」が有名だが、基本は上海租界セットである。半日で見切れる。以前からスケールの大きさについて聞いていた横店影視城に、長春撮影所の方から連絡を付けてもらって、2007年2月訪れた。も […]

「私が勝手に信奉する群馬文化人、小栗康平監督」~映画に関する腑に落ちる話(6)

群馬県が人口200万人になることを記念して、当時の小寺弘之知事が4億円の製作資金を用意した。監督は前橋市出身の小栗康平氏、内容については一切口を出さない約束だった。こんなことは、後にも先にも今回だけだ。知事の慧眼に頭が下がる。96年「眠る男」が完成した。主演が役所広司、眠る男が韓国で最も著名な俳優の安聖基(アン・ソンギ)、ワキにインドネシアの大女優クリスティン・ハキムを配している。 東京では岩波ホールで26週ロングラン上映を果たした。東京では、混雑を予想されたため、私は実家の館林に帰り、「上映協力券」で行くことにした。群馬県人は600円である。翌日、前橋の老舗本屋である煥乎堂ホールに向かった。 […]

「カンヌ映画祭の実像と4つのトリビア」~映画に関する腑に落ちる話(5)

これから書くことは、カンヌに毎年行っている配給関係者、映画祭関係者にとっては当たり前の話である。そして私が訪れたのは03年、05年~08年の5回にすぎない。すでに、状況が変わっていることも、あるかもしれないという前提で、読んでほしい。また、他の話題よりも、カンヌを優先したのは、「プレゼンのエピソード集」で三浦史子さんのリクエストに応えた結果である。 カンヌ映画祭は、1946年フランス南部コートダジュール、地中海の小さな漁村だったカンヌで始まった。ベネチア映画祭が、ムッソリーニのよって開始されたことに対抗し、自由主義国の映画祭として戦前に準備したが開催できず、46年開始となった。ベルリン、ベネチ […]

「崔洋一監督との不思議な気楽な縁」~映画に関する腑に落ちる話(4)

全国フィルム・コミッション連絡協議会の副会長は、設立当時から日本映画監督協会理事長にお願いしていた。日本の映画監督に、フィルム・コミッションを理解、協力、支援してほしいと願い、また日本の監督は、実際に製作にも深く関わっていて、撮影環境の改善に大きな役割を果たしてもらいたかったからである。 初代副会長は、深作欣二監督。大阪での第1回総会には、ガン治療中に無理を押して、ご登壇された。その熱意に感激である。打ち合わせの時、「チェリノブイリの近くに俺は行ったが、誰も付いてこない」と皮肉たっぷりの笑みを見せた。すでに死を覚悟されていて、半年後、永眠された。2代目は山田洋二監督で、2年間お世話になった。 […]

「黒澤明監督と仕事ができた幸運」~映画に関する腑に落ちる話(3)

86年から96年まで、私はソニーPCL(株)でハイビジョン推進を担当していた。ソニーはメーカーとしてハイビジョン機器を開発し、私はその最新機器を活用してソフト制作の可能性を模索する役回りだった。その中で映画でのハイビジョン合成を積極的に推進した。 現在では、デジタル技術でどんな画面合成でも最高のクオリティで可能だが、当時はブルーバックによるクロマキー合成をハイビジョン撮影で行い、フィルムに戻す方法が画期的なことであった。それまでのフィルムでの合成は、オプチカル合成と言い、8段階のプロセスを踏み、労力がかかり、かつバレバレの画面しか得られなかった。 最も早くこの技術を使用した作品は、実相寺昭雄監 […]

「映画史上の人物に会う」~映画に関する腑に落ちる話(2)

学生時代、映画関係の本を片っ端から読んでいた。誰に教わることもなく、何となく映画史が頭に入っていた。 84年頃だったと思う。会社の受付から外国のお客様が来ていますと困ったような連絡があった。初老のフランス人から、確かテレシネ(フィルムからビデオに変換すること)を頼まれた。名前を聞くとクリス・マルケル氏(1921年7月29日~2012年7月29日)だった。「ラ・ジュテ」などドキュメンタリー作品を監督、「シネマヴェリテ」の旗手の一人だ。本で読んでいた本人がそこにいる。後で知ったことだが、その頃、「ドキュメント黒澤明A.K.」(85年)、「トウキョウデイズ Tokyo Days」(86年)などの製作 […]

「若松孝二監督よ、永遠なれ」~映画に関する腑に落ちる話(1)

今回から、私がお会いした映画人、印象的な国内外の映画祭、世界の映画スタジオ・映画館など、具体的な記憶をシリーズ「映画に関する腑に落ちる話」で綴る。 私が入院した10月17日は、実は若松孝二監督の命日だった。4年前の10月12日、この病院からわずか5分、外苑西通りを横断しようとしてタクシーにはねられ、5日後に息を引き取った。改めてすごく近い何か感じる。青山葬儀場にお通夜には、授業の関係で30分遅刻したが、成田裕介監督に案内され、光栄にも最前列の崔洋一監督の隣の席をあてがわれ、目の前の遺影にお別れできた。 私が監督と出会ったのは、映画プリントを借りに行った19歳の時だった。以来40年余、様々な場面 […]