Blog映画に関する腑に落ちる話

「私が勝手に信奉する群馬文化人、小栗康平監督」~映画に関する腑に落ちる話(6)

群馬県が人口200万人になることを記念して、当時の小寺弘之知事が4億円の製作資金を用意した。監督は前橋市出身の小栗康平氏、内容については一切口を出さない約束だった。こんなことは、後にも先にも今回だけだ。知事の慧眼に頭が下がる。96年「眠る男」が完成した。主演が役所広司、眠る男が韓国で最も著名な俳優の安聖基(アン・ソンギ)、ワキにインドネシアの大女優クリスティン・ハキムを配している。

東京では岩波ホールで26週ロングラン上映を果たした。東京では、混雑を予想されたため、私は実家の館林に帰り、「上映協力券」で行くことにした。群馬県人は600円である。翌日、前橋の老舗本屋である煥乎堂ホールに向かった。群馬の文化拠点、ここで見なくちゃ。
会場は、キャパ150人だったが50人くらいの入りだった。私はその頃、映画は最前列で見ることにしていた。他人の頭を気にすることなく、作品に集中することができるからだ。上映が終了し、客電が上がった時、私は思わず拍手をした。多くの人がその拍手に追随するかと思いきや、結局私一人だった。帰り際に、初老の夫妻は「何だかよく分かんねな」とつぶやいていた。館林に戻り、両親にこの映画の評判を聞くと、皆「筋がよく分かんねな」と言っているという。多くの人が日頃イメージしている映画とは全く異なることが、ショックだったのだろう。映画は、起承転結が明確で、時間を忘れて楽しむものとは限らない。この映画は、日本の風土の中で成立した映画で、かつ世界の人々に共感を与えるものだと思う。「人間って大きいんかい、小さいんかい」。この作品は今でも私の日本映画ベストワンである。

96年9月、私はカナダ・モントリオールにいた。世界映画祭開催に併せて、「日本カナダ国際共同協定」締結記念のシンポジウムに出席するためである。泊まったホテルはメリディアン、家族と朝食を取っていると、隣の席に小栗監督が座った。私は変なお願いをした。「眠る男の名前は、タクジですよね。漢字は違いますが、私の息子もタクジです。彼と一緒の写真を撮らせてください」。この2ショット写真は、今でもきちんと保管されている。この時、「眠る男」が「審査員特別大賞」に輝いた。

その後、05年11月、新作「埋もれ木」を見に、母姉と一緒に「伊参(いさま)スタジオ映画祭」に行った。前橋生まれの母は、監督のファンで、監督の新聞記事をスクラップし、著書は全て買っていた。監督と記念写真を撮ってあげると嬉しそうだった。それから2年半、母は亡くなったが、最後の親孝行だった。因みに、伊参スタジオは、群馬県中之条町で廃校になった「伊参中学校」を「眠る男」のスタジオとしたものだ。その後、「月とキャベツ」(篠原哲雄監督)、「独立少年合唱隊」(緒方明監督)他、多くの映像作品の撮影地として機能している。また、「映画祭」は16年も続いている。

07年春、ロシア・ウラジオストク映画祭のフェスティバル・ディレクター、アレクサンドル・ドルーダ氏(写真中央)から「映画祭審査員をしてくれる映画監督はいないか」と、問い合わせがあった。映画祭審査員は名誉には違いないが、多くの時間を取られ、議論も面倒だと嫌がる人が多い。私の頭の中を多くの監督の名前が駆け巡った。そうだ、小栗監督はどうだろう。早速、電話をすると「いいよ」と簡単にOKしてくれた。普通の監督と違う。
私はこの映画祭の第1回から隔年で訪れている。今回3回目である。03年私は、ロシアにフィルム・コミッションを立ち上げたいと思い、映画祭に連絡し、単身乗り込んだ。ドルーダ氏と出会い、3か月後にFCができた。それ以来、互いに交流してきた。ウラジオストクは、日本に一番近いヨーロッパの街並みが撮影できる所である。また撮影のために警察から公官庁まで全面協力してくれる。91年まで軍港として地図に掲載されないほどの秘密地域だったが、今や新しいシベリア開発の拠点となっている。
9月、新潟空港からウラジオストク空港に向かう。空港に着くと、私たちだけ、応接室に案内された。パスポートを渡し、待っていると、車の準備ができたので外へと言われる。これこそ特別待遇、入国審査で並ぶこともなく、荷物のピックアップもない。パトカーに先導されて。かなりのスピードでホテルに向かう。
映画祭の会場は、オケアノ(英語でオーシャン)と呼ばれる映画館である。入口までの階段にブルーのカーペットが引かれ、名前を呼ばれたゲストが登っていく。今回は私まで特別待遇、名前まで呼ばれてしまった。

小栗監督は、他の映画監督とはちょっと違う雰囲気がある。多くの監督は東京もしくは近郊に住んでいるが、小栗監督は栃木県益子町のひっそりと雑木林に囲まれた所に住んでいる。東京からは、かなり不便なところだ。
たまたま私がブエノスアイレスに行くというと、「キンケラ・マルティン美術館」で彼の画集を買ってきてほしいという。それって誰? 美術館に行くと、私もその絵に衝撃を受けた。思わず、絵を買ってしまった。監督は、知的好奇心の塊のようだ。
映画祭のパーティでは、「あっ、グルジアの監督だ。写真撮ってくれる?」とオタール・イオセリアーニ監督に近づいていった。『素敵な歌と舟はゆく』(99)、『月曜日に乾杯!』(02)は日本でも公開されており、知る人ぞ知る監督である。私は知らなった。映画監督には違いないが著書も多く、本人は嫌いな言葉かもしれないが、「文化人」と言う言葉が相応しい。

監督は、高級なベルサイユホテル、私たち夫婦はウラジオストクホテル10階の部屋に滞在していた。この映画祭に桃井かおり初監督作品「無花果の顔」が出品されており、本人は来なかったがスタッフ2名が6階に投宿していた。確か3日目の夜10時ぐらいだったと思う。私は焦げ臭い匂いを感じた。部屋の中で何か燃えていると思ったが、何も火の気がない。窓を開けて下を見てびっくり、下の階の窓から火が出ている。すぐ貴重品を持って階段で1階に降りた。6階のスタッフは、少し時間たってから、顔をススだらけにして、「何も見えなかった」と恐怖をあらわにした。鎮火を待って、海外ゲストはその日ベルサイユホテルに移動となった。この最高級ホテルに泊まれて、私は満足だった。それ以来、海外のホテルは低層階の部屋を予約することにしている。

監督は寡作の人である。初監督作品「泥の河」(81年)で映画賞を総ナメ、鮮烈デビューした。木村元保プロダクション製作だが、実は私が学生時代に撮った映画「現の実朝」(79年)の16ミリカメラは、木村さんから無償で借りたものだった(どうでもいいことだが、書いておかなくちゃ)。「伽倻子のために」(84年)は、日本人初のジョルジュ・サドゥール賞、「死の棘」(90年)はカンヌ映画祭グランプリに輝く。そして「眠る男」(96年)、「埋もれ木」(05年)、「FOUJITA」(15年)。初めは3年~6年間隔だが、今10年に1本になっている。「君の名は」「シンゴジラ」で映画業界は元気のように見えるが、実際は「世界に通じる良質な作品は生まれない」時代に突入している。小栗監督ももう70歳、何を今思っているのか。

 

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