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1.書き下ろしプロフィールの勧め

1.書き下ろしプロフィールの勧め

普通の履歴書に書くプロフィールは、一つの形式でしかない。出生地、学歴、職歴、趣味などというありきたりの事柄で、何となく人の重要な情報を知ったという錯覚に陥っている。人間は多面性を持ち、切り口によって全く異なる人間に受け取られることもある。たとえば、上記の肩書きは、それなりに真実ではあるが、自分なりに分析すれば、人が認めやすい偉そうなことを並べて表現したものにすぎない。

今まで、いろいろな場所でプロフィールを要求されてきた。ありきたりのものでは面白くないと思い、テーマにあったものを付け加えて作成した。その延長上で、私を異なる切り口で別々のプロフィールを作成してみたいと思うようになった。それが、「書き下ろしプロフィール」である。 今まで4種類発表済みだが、さらに何種類可能か自分に課しているところだ。以下、作成可能でこれからトライしたいテーマを列記する。どれだけ自分を異なる視点で見ることができるかが私自身の試練でもある。

Sample

<1>「「私の脱皮史」編

<2>「プロジェクト」編

<3>「持ち物の様式と美」編

<4>「親と子供の成長史」編

<5>「私の表現行為」編~自らの意志によって欲求した表現を総括する。批評家、役者、映画監督、現代美術作家、俳人、ハードロッカーの中から何が見える。

<6>「旅で人生変化」編~国内外を問わず、旅行によって新たな価値を知った。おおくの刺激を受けた旅行を自分なりに解釈する試み。

<7>「映画遍歴」編~ビートルズ、若大将、マカロニウエスタンからゴダールへ、やくざ映画、ロマンポルノから韓国映画、アジア映画までの、紆余曲折な映画遍歴。

<8>「自己集中史」編~数々のものにハマッた経験は生かされているか。

<9>「私の挫折史」編~多くの失敗は、私にとってかけがえのない糧であった。さて、その事実をどれだけ見つめることができるかに自分でも注目。

<10>「人間遭遇」編~私はどこで誰に出会ったのか。これは私にとって最も重要なできごとである。ここに記述される人々は私のエネルギーの源泉でもある。

<番外>「異性関係」編~誰にも語っていない禁断の領域を自分のために整理し、それを他者にどう伝えるべきか、を真剣に考えたい。

<1>「私の脱皮史」編

私は何度も「脱皮」して成長してきた。「脱皮」は、成長のために、自ら古い殻を捨てることだ。人生の様々な転機を確実に自分のものにする、それが「脱皮」である。

1951年6月25日、御来光と共に群馬県館林市に降臨。かに座でAB(えび)型ということから甲殻類を自認。  以降8回の脱皮を繰り返しつつ成長中、現在9回目脱皮終了。 幼年期:分類的知識欲旺盛で、当用漢字辞典、世界地図帳、5万分の1地形図、岩石図鑑、理科年表、世界国勢図会等を愛読。ポケットは石灰岩でいっぱい。 悪ガキたちで自転車隊を組織し近辺に遠征、梨畑荒しで捕まって解散となる。
62年(第1回脱皮、11歳) 中学入学を機に「優良生徒」に転換。 放課後は化学クラブで試薬を購入し実験、夜は天文観察と天気図作成、R&Bとブリティッシュロックで深夜まで。
68年(第2回脱皮、17歳) 足利高校在学中、「反体制生徒」に転向。 ニーチェ、ゴダール、吉本ばななの親父に傾倒。70年、静岡大学理学部化学科に入学するも、授業には出ず4年間、映画と政治三昧で除籍寸前に中退。
75年(第3回脱皮、24歳) 恥ずかしながら、再構築を目指す。 慶応大学文学部哲学科入学、同新聞研究所入所。78年、16mmで劇映画「現の実朝」を製作・監督、自らの演出能力欠如に気づく。79年ソニーPCL入社(いい会社だった!)。
80年私より身長の高い小児科医師と結婚、式場で12cmヒールを履く。
83年(第4回脱皮、32歳) 男系子孫誕生、成人を初自覚、成体となる。 多忙な妻に代わり、0歳児から子供の世話を主体的に行なう。子供の日々の成長を見つつ、自らの半生を回顧・反省、無償の愛情に目覚める。 この頃、会社ではビデオ、レーザーディスクなどの制作技術営業を社内抵抗勢力と闘いながら行なっていた。
87年(第5回脱皮、36歳) 公私混交的行動開始。 「ハイビジョンソフトの伝道師」と言われ、全国各地で講演。篠田正浩監督「舞姫」や黒澤明監督「夢」、コンサートの立体映像全国中継の技術コーディネイト。プロデューサーとして17本のハイビジョン作品を制作、各種国際賞など受賞。映像新聞「ハイビジョン時代の到来」(125回連載)、「ハイビジョン年鑑」、メディア系雑誌などに原稿多数執筆。
92年「平成維新の会」入会、94年大前研一の「一新塾」第一期卒塾。
96年(第6回脱皮、45歳) 会社利益から社会貢献へ。
99年フィルムコミッションを日本に設立する活動開始。急速な盛り上がりを見せ、01年全国組織を設立。同年、地域全体に社会人講師を送る「きてきて先生」全国推進プロジェクトを静岡県伊東市で開始。ネパール支援のために、国際NGO「シャプラニール」の参加、NPOになると同時に理事。大学講師兼務をきっかけに、メディアリテラシー教育充実のための活動開始。日韓関係を深めるために、映画での交流プロジェクトを企画・実施。
02年(第7回脱皮、51歳) フリープロデューサー。 23年間勤務したソニーPCLを円満退社。東京国際映画祭を改革する計画を秘密裏に画策し、まんまと内部に潜入し活動。サラリーマンを辞め、もう少しマシな日本をつくるために自由を勝ち取る。03年「前澤事務所」設立。全国フィルム・コミッション連絡協議会専務理事・事務局長となり、京橋のフィルムセンターに寄生。Asian FilmCommission Network設立。
05年(第8回脱皮、54歳)地域活動開始。 自分の現場を持つために、新設山梨県立大学教員募集に応募。面接で「山梨を私の大実験場としたい」と言い、採用。現在、大学への期待に応えるべく、学生と地域とともにフィールドでさまざまな挑戦をする。‘06YDP、’08Hello!TAGENGO、‘10やまなし映画祭、’12「農家民泊」活動開始。
11年(第9回脱皮、60歳) 在家のまま出家し、「哲斎」となる。
16年(第10回脱皮、65歳) 大学教員を辞し、前橋に居を構える。華麗なる転進ができるか。
21年(第11回脱皮、70歳) 天命を知り、宗教法人「自尊神」布教開始。
31年(第12回脱皮、80歳) 某国にビザなし不法移住。
50年(第13回脱皮、99歳) 白寿の祝い。

民教協提供「発見!人間力」其の8 『ロケ地を発掘』~異色教授の「脱皮」人生~

<2>「プロジェクト」編

小さい時から何かしらプロジェクトを行ってきた。基本的には既存のものに対する反発だが、前半のプロジェクトはほぼ失敗、しかし学んだことは多い。

’68 A高校で「平和な8人委員会」を組織、学園祭で社研的展示。他校連携を計画するも、担任教師に懐柔され、結局日和る。突破しきれず、無念。
’72 S大学で「映画研究会」を再建。上映活動に邁進。崩壊した全国映研再建を目指し、全国行脚するも、ムーブメントにならず、あえなく挫折。
’76 K大学で「美術鑑賞会」から分派・独立し、「西洋美術研究会・洗濯船」設立。欧州美術旅行を企画するも、顧問教授からクレーム、始末書を出す。
’77 W大学の屋根裏で2ヶ月特訓し、「十月劇場」シアター・グリーン公演で役者として初舞台。一度フットライトを浴びる感動は忘れられないが、2度と舞台に立たず。
’78 劇映画「現の実朝」(B&W/16mm50分)を製作・脚本・監督。鎌倉で1ヶ月間合宿し、撮影。監督は2度としないと自覚、そのための制作費250万円は少々高い。
’92 秘密結社JAAP(Japan Association of Advanced Producers)結成。TV局、プロダクション、出版、CMで活躍するハイビジョンプロデューサーを集め、行政の進める施策に対し、まともな推進活動を提起。2年で解散したが、現在でもネットワークは健在。
’94 勉強会「トリプル・ワン」設立。「大前研一の一新塾」一期生が中心になり勉強会を行なう(50回)。多くの有名なゲストをわずか謝礼3万円均一で呼び、懇談する。 02年、NPOになる段階で理事に就任。
’98 ネパール旅行をきっかけに、「シャプラニール=市民による海外協力の会」に入会。祭りイベント、NGOカレッジ、スタディツアーなどに参加し、評議員を経て、01年から理事4年、05年から評議員。
’99 8月日本にフィルムコミッションを設立するための戦略を作り、準備開始。00年2月「FC設立研究会」設立。9月「全国シンポジウム」開催、「中間報告書」作成配布。01年、「全国フィルム・コミッション連絡協議会」設立、副委員長就任。マニュアル作成、セミナーイベント、規制緩和促進などを行なう。 電気通信大学人間コミュニケーション学科で「メディアリテラシー」授業開始。これをきっかけに、メディア教育について情報収集と人脈形成。03年、「パブリック・アクセス・チャンネル」拡大活動に収斂させ、プロジェクト開始。
’01 地域から教育を変える目的で、「きてきて先生」全国推進プロジェクト始動。地域の全小学校に社会人講師を送り、教育現場を元気にするボランティア活動。伊東市の10校で実施。大反響だったが、以降の組織運営に不純人物が介入し破綻。99年から韓国映画人との交流が急速に始まり、FCを契機として、さらにアジア映画発展のための共通目標を設定。
’02 「東京国際映画祭」リニューアルの一環として、新生「ニッポン・シネマ・フォーラム(NCF)」 ディレクター。 アジアコラボ地図を作成し、ロシア、台湾へのアプローチの必要性を感じる。 関西大学社会学部マスコミュニケーション学科で「メディアプロジェクト論」の授業。
’03 有限会社前澤事務所設立。慶応大学メディアコミュニケーション研究所で授業開始。 ロシアのハバロフスクとウラジオストクに単独訪問。アジアFCネットワーク設立へ具体的活動。
’04 2月、6月の準備会議を経て、10月AFCNet設立。
’05 4月山梨県立大学教員となり、「山梨を大実験場にする」活動を開始。
(1)「やまなし・ディスカバラー・プロジェクト」(05年11月~10年2月)
(2)「桜座で車座」(06年3月~07年3月、若松孝二から寺脇研まで12回)
(3)「地域プロデューサー養成講座」(06年6月~09年12月)
(4)「やまなし映画祭」(05年~11年)
(5)「インバウンド観光教育プログラム」(07年~09年3年間)
(6)「多言語放送Hello! Tagengo」(08年~10年)
(7)「県立大学観光講座」(07年~12年)
(8)「水環境で村づくり・忍野」(07年6月~10年)
(9)「キャンパス・キャラクター・プロジェクト(09年4月~13年)
(10)「大学広報誌Souffle編集部」(10年~15年)
(11)「サービス・ラーニング」(10年~14年)
(12)「フットパス山梨県立大学」(10年)
(13)「農家民泊を山梨県に導入するプロジェクト」(12年~15年)
YDP
やまなしディスカバラープロジェクト(YDP)

<3>「持ち物の様式と美」編

持ち物の選び方は、その人の価値観を示す。10年前に書いた時と今の持ち物は随分と異なる。持ち物の変遷をつなぐと、また違ったものが見えてくる。

所有物シール――池田あき子作「wachifield」の「猫のダヤン」を手帳、財布、PHS、鞄、名刺入れ、傘、パソコンなどに貼る。車には特大シール。自由が丘本店は自宅近く。
帽子(hat)――夏は涼しく、冬は暖かい帽子を愛用。使用中15個。渋谷センター街の他、韓国、中国、クロアチア、エクアドルなど世界各地で安いものを購入。16年3月インドネシアで買ったキャップから、もうハットは使わない。、
髪――かつて茶系に染めていたが、今はそのまま。これ以上薄くなったら、剃髪し、各種カツラ(各国で4種購入済)を日替わりで使用したい。学生時代は、背中まである直毛ロンゲ。
髭――カリブクルーズで禁酒を記念して伸ばす。テレビを見ながら、自分で切る。
眼――眼鏡市場で購入。かつてイベント用に緑と赤のカラーコンタクトを購入し、何度か使うが眼が疲れて使用禁止。
腕時計――予定に合わせ、日替わりで使用。Funnyなものを旅行の度に購入、約400個所有。平均単価約4000円。電池交換費用削減のため、交換キットを購入するも、作業時間なし。
ワイシャツ――ネクタイ廃止と共に、マオカラーのみを各地で購入することになった。
オープンシャツ――バリ島で10着纏め買い。沖縄の「かりゆし」も愛用。
ネクタイ――20年前に全廃。カンヌ映画祭で必須のタキシード用蝶ネクタイは保存。
スーツ――サラリーマンスーツが嫌い。黒、茶、青、白などをバーゲン購入。ステージ用マオカラーはオーダーで4着。
コート――クリーム色トレンチ、縞々ロング、黒い牛革ロング(ソウル・イテウォンで7万円で製作。裏地は偽セリーヌ6枚)等。
トランクス――「ドンキホーテ」でシルク@980円まとめ買いしたが現在販売中止。プサンで偽シルクをまとめ買い。
靴――国内外のバーゲンでまとめ買い。軽くて履きやすいので、ほとんどが「ハッシュパピー」。黒は履かない。
雨傘――世界各地で楽しい絵柄の折り畳み傘を購入。雨毎に交換。雨が楽しい。
パソコン――ノートブックになってからは、VAIO一筋。だが故障でデータ紛失度々。そろそろMacに転換。
手帳――毎年同じ形式の能率協会製。ウィック2(黒)商品番号1721。1週間一覧型。
鞄――A4サイズが入り、小袋が多いものを購入、映画祭のものも多い。様々なものを入れている。
財布――ソウル・明洞で購入。カードがたくさん入るものを使用するが、カードは極力増やさない。
小銭入れ――印傳屋製。札と50円以下と100円以上で区分け。お守りも忍ばせる。
名刺――年1000枚使用。多い時は7種類の名刺を持っていたが、今は2種類。
名刺入れ――甲府・印傳屋製。海外へのお土産用に買った40個の余りを使用。
印鑑――北京で購入した石を父が篆刻したもの。
PHS――スマホに無料交換。未だにメール機能使えず。
毛布――ウランバートル空港で買ったモンゴル製の駱駝毛が一番(20US$)。
髭剃り――ブラウン社製を愛用。自宅用と携帯用を分ける。カミソリは使わない。
自宅――東京都品川区旗の台に20坪築45年2階建。前橋市に75坪2階建の別宅「アトリエMM」。
キーホルダー――①(自宅・別宅用)アイルランド゙で買ったGuinness栓抜き付き。結婚指輪もここに厳重保管。 ②(大学研究室、山梨用)ミュージアムショップで購入した音の出る♡型。
車――東京にジャガー(故黒澤監督の愛用車と同じ緑色)、甲府に8人乗りステップワゴン(フィールドワーク用)
神頼み――ステップワゴンのバンパーに神社の交通安全シール1000種を貼る。効果はあるのかないのか。
バイク――ホンダ・スーパーカブ。神戸地震後、サバイバル用に購入。16年で2000km走行。今年廃車。
年賀状――自分から出さず、常に返信用。内容は前年の活動報告。宛名は必ず毛筆で書く。
映画――邦画「眠る男」(小栗康平監督)、洋画「暗殺の森」(ベルナルド・ベルトリッチ監督)がわがベスト作品。劇場で4000本、ビデオレンタルで1000本を見る。名作VHSをGEOから150本購入。
書物――辞書、辞典、地図などデータ系と映画祭カタログなど以外はサイン付のみ所有。陳列をやめたので、極力処分か、誰かにプレゼント。山梨に来て、ブックオフで時代小説200冊購入、100冊処分。
音楽―― Led Zeppelinを崇拝。96~99年、ダイエットのために、Glay, L’arc en ciel, B’s、ELT、林檎などの新譜を買い移動時に聞く。カラオケではハードロッカーに変身。年を経て記憶喪失顕著。
ビデオ機器――仕事の関係で常に新機種を購入。現存する再生機は、VHS、PALVHS、ED-β、Hi-8、miniDV、LaserDisc、VideoCD、DVD、Blu-lay。
時計400個
並べた時計から、その日に応じて選択した

<4>「親と子供の成長史」編

私の半生を振り返ってみると、息子の誕生が自分の成長に大きく影響していることがわかる。息子を育てながら、自分がいかにして大きくなったかを再認識した気がする。一人で勝手に育ってきたように錯覚してきた自分を反省した。
1951年、群馬県館林市で4人兄弟の末っ子として生まれた。両親は教師同士の職場結婚。母は子供を育てるため幼稚園教諭として、私の大学卒業まで働いてくれた。共働きのため、少年期は祖母に育てられた。父は43歳から中学校長で、兄弟にも教員夫婦が2組いるが、世界が狭い感じがしていて、私は教職には就く気がなかった。  (紆余曲折の半生だが、ここでは省略)
1980年、小児科医飯塚眞理子と結婚。小柄で料理がうまい人という私の理想はいとも簡単に裏切られた。子供は作らないように努力するが、3年で失敗。いずれも、後悔はない。短い蜜月時代の終了と共によく喧嘩をするようになったが、その後は互いに異教徒(20数年の異なる歴史)であることを認識することによって和平へと向かった。
1983年、長男誕生。3ヶ月後から妻は、職場復帰(都立大久保病院)。都職員住宅(白金)に住んでいたので、同仮設保育園に通園。保育園の後は、そこの保母さんの家で世話になる(以降ずっと2重保育状態)。1才から港区立志田町保育園へ。朝の通園、夜の迎え、おしめの交換、搾乳・保管した母乳をあげる機会は、私の方が圧倒的に多かった。その結果、息子は今でも私になついている。公園デビューもした。 妻が流行の病気を次々と自宅に持ち込むので、2才までは毎月異なる病気に罹った。
1988年、品川区旗の台に転居。区立旗の台保育園に毎朝一緒に通う。5時以降は、保育園近くの別の家に預ける。息子は多くの人々に育てられ、社会性の点では有効かなと思った。父母会にも積極的に参加。都内全域の公園や緑道に連れ回し、ちょっとした公園通となる。
1990年、区立第二延山小学校入学。入学式に来た男親は私1人。その後の教室での会合で、保護者会土曜日開催を先生に要求(実現したのはなんと4年後)。PTAの母親中心主義を打破すべく努力するが、多勢に無勢で何ら変わらず。世の中の壁は厚い。息子は、3年途中まで放課後学童クラブ、その後はまた別の家にお世話になる(3重保育)。3年秋からは、帰宅部。数人の女子学生ベビーシッターにお世話になる。 妻はこの頃、済生会中央病院勤務。女性職員に扶養家族を認めない病院当局と闘う。
1996年、区立荏原第五中学校入学。1年の暮れ、担任が息子の頭をたたいたと謝罪に来る。学校で「説明会」なる茶番劇一幕あり(映画を観ているような配役そのもの)。翌年交代した新校長に教育ビジョンを宿題に出す。難問テストをした若い音楽教師を叱る。 息子と共に「シャプラニール」のイベントにボランティア参加。重要性を強く感じ、PTAに国際ボランティアの提案をするが、役員は思考停止で回答なし。 妻はこの頃、横浜の「けいゆう病院」勤務。息子が「突発性難聴」となり、自宅でインターネットによる情報検索。妻がメニエル病への処方をし回復。感謝感激。
1999年、都立小山台高校入学。以降3年間、6時50分起床、朝食を作り、息子の弁当作りをする。親は得意分野を分担して行うことがよい。無理は歪みを作る。PTAで「買ってはいけない」の著者を呼び、講演会を実施。学校に異常に気を使うある母親が講師の資料とレジュメを勝手に編集して配布。言語同断、前代未聞な行動に愕然。
2002年、息子は金沢工業大学に進学。やっと、弁当作りから解放される。第2次蜜月時代到来か。

<結婚して36年間で私が学んだことの一部>
「自由は与えられるものではなく、勝ち取るものである」「現状の学校・PTAは、教育を改革する意欲に乏しい」「母親の多くは、我が子のことだけを考えている」「人は、多くの善意に満ちた他人に育てられる」「子供を育てることは、将来社会に対する投資でもある」「子供は、親に未熟さを発見させ、親を成長させる」
モロッコ・フェズの親子猫
モロッコ・マラケシュの親子猫