Blog映画に関する腑に落ちる話

「崔洋一監督との不思議な気楽な縁」~映画に関する腑に落ちる話(4)

全国フィルム・コミッション連絡協議会の副会長は、設立当時から日本映画監督協会理事長にお願いしていた。日本の映画監督に、フィルム・コミッションを理解、協力、支援してほしいと願い、また日本の監督は、実際に製作にも深く関わっていて、撮影環境の改善に大きな役割を果たしてもらいたかったからである。
初代副会長は、深作欣二監督。大阪での第1回総会には、ガン治療中に無理を押して、ご登壇された。その熱意に感激である。打ち合わせの時、「チェリノブイリの近くに俺は行ったが、誰も付いてこない」と皮肉たっぷりの笑みを見せた。すでに死を覚悟されていて、半年後、永眠された。2代目は山田洋二監督で、2年間お世話になった。

その後、崔洋一監督が監督協会理事長になったが、その前後から永いお付き合いが始まった。
札幌、糸魚川、天草、金沢と様々なシンポジウムやイベント、会合でよく顔を合わせた。大抵の場合、私がキレイごとを言い、隣の監督が本音を突いてくるというパターンだった。私にはそれが心地よかった。一見、本当のサイのようで怖そうだが優しい人だ(だが、現場では絶対違う。監督は皆そうだ)。

そして甲府、09年大学での観光講座に講師として招へいした。映画監督という立場から、日本の観光がどう見えているのか、というテーマだった。講演の前には定番の「ほうとう」だったが、食べるのが速いと言う私の半分の時間で平らげた。信じられない速さ。未だに現場感覚なのだろうか。
11年6月私は、大学に「やまなし映画祭」事務局を置き、まともな映画祭を実施するために、熱意あふれる人を集めた「やまなし映画無尽」というボランティア組織を立ち上げた。組織の結束を図るために、崔監督に無理を言って、激励に来てくれるようにお願いした。予算などないので、ノーギャラである。喜んで(意気に感じて)来てくれた。そういう余裕を持った人である。

その会合に参加していた学生ボランティアに、陸前高田出身の菅野結花さん(当時3年)がいた。彼女は、一度5月に郷里に戻り、流された自宅付近の片づけなどをしていたが、マスコミ報道のいい加減さにうんざりさせられていた。今しか撮れない状況をどうしても自分の手でドキュメンタリー作品として残したいと涙を見せた。崔監督は、「それは君にしかできないのだから、しっかりやりなさい」と激励した。私も前に同じことを言っていたが、言葉の重みが違う。

彼女は決意を固め、以降2回にわたり、郷土に帰った。知人、友人から11時間分のインタビューを撮影し、90分に編集した。途中で作詞家の覚和歌子氏と鍵盤楽器奏者の丸尾めぐみ氏に出会い、主題歌「ほしぞら と てのひらと」を提供された。その作品「きょうを守る」は、同年11月20日「やまなし映画祭」で初公開。当事者でないと撮影できない自然さが現れる作品として、高く評価され、その後全国60か所、6000人までに広がることになる。(株)ドキュメンタリー・ジャパンが事務局を務める「座・高円寺ドキュメンタリー映画祭」で入賞、新人賞をいただいた。後日、英語版も製作、アメリカの大学を中心に世界30大学でも上映されている。これがきっかけとなって、彼女は地元の岩手日報の記者になった。

北海道日高支庁むかわ町、穂別地域で製作された「田んぼでミュージカル」(02年)という作品をご存じだろうか。人口4千人の高齢者ばかりの町、たまたま町のイベントに招待された崔監督は「俺たちにも映画作れるかな」という質問をされ、「できるさ」と答えたばかりに、以降何度も自費で通い、制作指導をすることになった。結果的に平均年齢74歳のキャスト、スタッフのよる元気な作品が完成、数々の賞を受賞した。これも崔監督が背中を押した結果である。この町の人は、ノリがいい。その後、次作「田んぼでファッションショー」をはじめ、今第5弾まで制作しているようだ。

私がなぜ崔監督と気が合うのかとよく考える。監督がどう思っているかどうかはわからないが、私は監督の社会への関わりに共感しているのかもしれない。普通、日本の映画監督は、自分の作品製作にしか興味がない。崔監督も映画監督だから、作品を作り続けることに手を抜いているわけではない。しかし、他の監督よりずっと幅が広い。その根拠がマイノリティ思考にあるような気がしてならない。在日朝鮮人として生まれた経験が、何でも自らの力で切り開くことしかないという思考を生み、同じような考え方の人を支援したくなる素地になっているのではないかと想像する。

わが病室に監督が来られた。主に20代だった頃のお話をお聞きした。初めてお聞きする貴重な時間だった。有名な人が初めから有名だったわけではない。自分たちと同じようにもがき、苦しんできたはずだ。私はそこに興味がある。崔さんも映画監督になるまでの道筋は紆余曲折、しかし必然的に監督にたどりついた感じもする。1日千円の照明助手、昼メロや時代劇の小道具担当、言いたいことを言う下っ端助監督、しかしなぜか多くの人に気に入られて、新しい仕事を任されていく。そして、若松孝二監督、大島渚監督からのチャンスに応え、険しい監督の道を決意する。その時27歳だったという。小さな出会いを大事にする姿勢が、運命を変貌させていく様を垣間見た気がした。だからこそ同時に、人の運命にも影響を与えることに躊躇しないのかもしれない。

09年「カムイ外伝」の後、新作を見せてもらっていない。何とかしてくれー。
監督からのコメントをいただければうれしいです。

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