Blog映画に関する腑に落ちる話

「映画史上の人物に会う」~映画に関する腑に落ちる話(2)

学生時代、映画関係の本を片っ端から読んでいた。誰に教わることもなく、何となく映画史が頭に入っていた。
84年頃だったと思う。会社の受付から外国のお客様が来ていますと困ったような連絡があった。初老のフランス人から、確かテレシネ(フィルムからビデオに変換すること)を頼まれた。名前を聞くとクリス・マルケル氏(1921年7月29日~2012年7月29日)だった。「ラ・ジュテ」などドキュメンタリー作品を監督、「シネマヴェリテ」の旗手の一人だ。本で読んでいた本人がそこにいる。後で知ったことだが、その頃、「ドキュメント黒澤明A.K.」(85年)、「トウキョウデイズ Tokyo Days」(86年)などの製作のために日本に長期滞在していたようだ。
87年、またまた受付から連絡があった。応接室には2人の外国人が座っていた。名刺を差し出した方はジェレミー・トーマス氏だった。彼は「戦場のメリークリスマス」(大島渚監督)などのプロデューサーである。そしてもう一人は、なんとベルナルド・ベルトリッチ監督(1941年3月16日~)だった。私のベストワン映画は彼の「暗殺の森」なのである。少し震えた。私は思わず天を指さし、原題の「Il conformista(イルコンフォミスタ)」と叫んでしまったが、かすかに笑ってもらったがあまり受けなかった。意味は、「優柔不断な人」である。2人は、丁度「ラスト・エンペラー」の撮影が終わり、ハイビジョンの設備を見に来たのだった。
93年頃、ソニーの創業者、盛田昭夫氏がハイビジョン編集室に気品のあるご婦人を案内してきた。私の制作した「Recurring Cosmos」(顕微鏡下の液晶現象作品)が気に入ったらしく、どう撮影したかを説明するように言われた。彼女はレニ・リーフェンシュタール氏(1902年8月22日~2003年9月8日)である。すでに90歳のはずだが、背筋を伸ばし、かくしゃくとしていた。36年ベルリンオリンピックを撮影した「民族の祭典」という傑作は戦後、ナチの戦意高揚映画だとして戦犯の汚名を着せられた歴史上の記録映画監督である。
私はなんて幸運な人間なのだろう、とよく思う。書物の中の人々に現実に会える偶然、たまたま当時の最先端技術だったハイビジョンに関わっていたことがその偶然を作り出した。
写真は、川崎のシネコン「チネチッタ」ではなく、ローマにある映画スタジオ「Cine Citta」である。ロッセリーニ、ヴィスコンティ、フェリーニ、トルナトーレたちの創作拠点であった。「ベンハー」もここで撮影された歴史的スタジオである。

3 comment
  1. すごい、凄すぎます! どなたも20世紀を代表する映画人ばかりで。とくに「民族の祭典」を撮られた監督さんにお会されたとはビックリ! しかもリーフェンシュタールさんは21世紀まで生きておられたのですね。

  2. コメント、ありがとうございました。私もまさか本人におあいできるとは思っていませんでした。別におつきの人に支えられているわけでもなく、すっくと立ち姿勢のよい痩せた貴婦人でした。しかし、90歳を過ぎて、わざわざハイビジョンの制作技術現場までくるというあくなき好奇心が長生きさせたのだと思います。同じように黒澤明「羅生門」のカメラマン宮川一夫氏も81歳の時、篠田正浩「舞姫」の撮影で食い入るような目で見つめる表情に同じような印象を思い出しました。

  3. 勉強になります。知的好奇心と情熱が長生きの秘訣なのですね。
    どなたも映画が好きで好きでしょうがないという印象を受けました。パッションが好奇心を引き起こさせるのでしょうか。
    私は好奇心はあってもパッションに欠けているかもしれないと自省しました笑

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